神鉄電車物語

 

神鉄電車物語目次

 

…1. 創業期

 
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神戸電鉄は神戸市兵庫区の新開地を起点に、有馬温泉やJR福知山線の三田駅及びJR加古川線の粟生駅を結ぶ電鉄で、50パーミルの急勾配が随所に点在する山岳鉄道だ。 阪急電鉄の傘下にあり阪急阪神ホールディングスグループに属している。近年粟生線存廃の話題でマスコミを賑わしているが、今年で齢九十六歳を迎えた歴史ある電鉄で、小生のように太平洋戦以前に生まれた世代には「神戸電鉄」よりも旧名の「神有電車」の方が馴染み深く、神戸近辺には未だに「シンユウ電車」と思い込んでいる人達がけっこう多いようだ。
乗客が殺到して連日おすなおすなの大盛況だった開業当初や、戦争が近づくにつれて贅沢が敵視されガラ空きの電車ばかりが目立ったご時勢、軍需工場に動員された学徒や、食料確保に血眼になって百姓家を訪ね歩く主婦達ですし詰めがあたりまえだった戦争中、食糧難で右往左往する主婦達や、アジュンマ(朝鮮出身のおばさん)の担ぐ大きな荷物が整備の行き届かない車内を我が物顔に占領していたヤミヤ横行時代、今でもつい最近の事のように思い出す。
定期乗車券目当ての小口株主が急増して営業収入が落ち込んだ事、倒産云々の話題が連日新聞を賑わした事、阪急電鉄の傘下に入って近代化が始まり、沿線に住宅が増えて業績が好転、中小私鉄の大手と呼ばれる様になった事等々話題はつきない。嘗ては稼ぎ頭だった粟生線が三宮行きバスとの競争に敗れ、発生した累積赤字が会社の存続に深刻な影響を及ぼしだした昨今、開業以来常に波乱万丈の歴史を辿って来た神鉄電車だ。ワインレッドとクリームの派手なボディーカラーに似合わず地味で目立たない地方鉄道だが、その独特の魅力は多くのファンを引き付け、沿線の人たちにとても愛されている電車である。そんな電鉄の履歴を紹介しようと試みてみた。

神戸側ターミナルの湊川駅はNHKの大河ドラマ「平清盛」で話題の福原の都の西の端に当たる場所で、新開地商店街北隣の湊川公園の地下だった。湊川と言う駅名は、暴れ川だった湊川を埋め立てた場所にあるというぐらいの意味で正式な地名ではない。阪急阪神等の他社線との連絡は市電のお世話に頼らざるを得ず、湊川交差点のそばのかなり勝手の悪い場所で、電車道のトンネルと隣り合った半地下構造の駅舎だった。
神有電車の時代に遡ると、電車が湊川駅を出ると短い地下区間を抜けて、会下山(えげやま)に沿う様に連続50パーミルの急勾配を、短い隧道を幾つか通り抜けながら登るスパイラル区間が続いて、長田駅に辿り着くのだが、長田駅の辺りは嘗ては夢野とよばれ、永遠の眠りについた神戸市民のための化野で、駅に程近い所に大きな斎場があり、煙突からは常に紫煙がたなびき、斎場の背後の斜面には墓地が広がる人家まれな在所だった。湊川から長田までの線路沿いに未だに「そうれんみち」とよばれる街道があるが、昔は野辺の送りの列が日長途切れず、こう呼ばれるようになったらしい。
長田駅から鵯越駅までは義経の「鵯の逆落とし」の故事で有名な急斜面の山腹を縫う様に登る。途中の鷹取道駅(現丸山駅)は山の中腹に位置して高取山頂の高取神社への参道口にあたり、苅藻川が流れる谷の向かいの斜面にはまばらに人家が見えるが駅からは遠い。次の鵯越駅も烏原(からすはら)水源地の入り口に当たるだけで人家皆無の場所だった。 鵯越駅を過ぎると狭い谷間を川沿いに登り続け、渓谷真っ只中の緑溢れるハイカー専用の様な摩耶駅(菊水山駅)を経て、山田村小部地区に至って初めて集落らしきものが線路脇に現れて鈴蘭台駅に着き、港都神戸近郷とは思えない秘境沿線と言っても当たらずとも遠からずだった。 この小部地区も電鉄開通の前年ぐらいまでは電灯の無い寒村だった。次駅「北鈴蘭台」は松林が生い茂る峠で駅どころか人家も無く、「山の街」は山林の中の信号所だった。「箕谷」から「谷上」にかけては六甲山と丹生(たんじょう)帝釈金剛童子山系に挟まれた谷筋にある山田川にそって播磨地方に抜ける街道があり、嘗ては山陽道の裏街道として利用され、播州と摂津を繋ぐ交通の要だったため「下谷上農村歌舞伎舞台」「六條八幡宮」「若王子神社」「上谷上農村歌舞伎舞台」などの数多くの文化財が散在し、由緒ある寺院や民家がそこかしこに見え、谷上は宿場だったが谷合が狭くて農地が少なくその規模は知れたものだった。谷上から有馬温泉までの途中駅の周辺では更に人家が少なく、神有電車沿線は猪や猿や鹿が徘徊する谷間がほとんどだった。 神戸電鉄の前身「神有(シンユウ)電車」の「神有」は神戸と有馬温泉の頭文字をつなげたもので、神有電車の正式名称は神戸有馬電気鉄道で、有馬温泉と神戸の市街地を繋ぎ、更に有馬鉄道に連絡して有馬温泉から道場や三田方面とも繋がる電鉄の開業が目的で、有馬温泉や道場村及び三田町、つまり有馬郡住民のための鉄道として計画されたのか、沿線開発には関心が薄く、電車が走れば有馬温泉行きの遊山客が乗ってくれるだろうぐらいで、採算性には余り拘って居なかったように思う。

創業者山脇延吉氏の出身地にほど近い神鉄道場駅近くに、氏の頌徳碑が建立されているが、山脇延吉氏は有馬郡道場村で銀行業を営む傍ら県会議員を拝命する豪農の出身で、明治8年(1875年)2月7日生まれ、姫路中学校、熊本の第五高等学校を卒業し、東京帝国大学工学部で土木工学を学ぶ、いわゆる秀才だったようだ。父の急逝でやむなく学業中途で故郷に帰り、兵庫県会議員と家業の銀行業を引き継ぐ傍ら、大学で身に着けた土木の知識を駆使して地元の農業振興に力を注いだ。農業学者として確固たる地位を築いておられる。地元での職務が多忙なため県会議員として神戸に張り付くことが難しく、道場と神戸をまるで通勤するかのように行き来しておられたのだが、交通が不便なのには辟易し、「神戸に直接繋がる鉄道があればなあ」と常に思っておられたとのことだ。

有馬郡には天下の名湯有馬温泉がある。歴史が奈良時代に遡る由緒ある温泉で、豊臣秀吉こよなく愛していたことは有名な話である。近世になってからも大阪神戸に近い行楽地としてまた湯治場として親しまれていた。阪急電車が開業当初「箕面有馬電気軌道」と称して大阪と有馬温泉の間に電車を走らせるのが目的だったように、明治のころからも京阪神の奥座敷として人気度があり、関西一円から訪れる人が結構多かった。阪鶴鉄道(福知山線の前身)が1898年1月に生瀬まで延長した際に生瀬駅は有馬口駅と呼ばれ、生瀬は有馬温泉入り口の宿場で、有馬口から徒歩か駕篭により有馬温泉へ向かったものだ。1899年1月に鉄道が有馬口から三田まで延長されると、三田駅が有馬温泉の玄関になった。鉄道の開通で三田は物資や人が集まるようになり、町が発展し北摂地域の中心になった。その様子をつぶさに観察していた山脇延吉氏は、地域の振興には鉄道は欠かせないものだと確信し、将来性のある新しい事業として鉄道の敷設経営を決意したのだった。

1906(明治39)年に公布された鉄道国有法により、山陽鉄道や阪鶴鉄道などの大手民鉄が国有化され、鉄道経営の旨味が抹殺され、私設鉄道の新規敷設出願が全く出なくなる事態を招いてしまった。鉄道国有化に多額の資金を費やした政府には地方に鉄道を敷設する余力が無く、地域開発には鉄道の新設が欠かせないご時勢がら相当な突き上げを受けたようだ。窮余の一策として、渦巻く不満を宥めるとともに民間資本による鉄道建設の促進を図ろうと、1910(明治39)年8月3日に、条件が厳しく手続きが煩雑な「私設鉄道法」を廃止し、替えて「軽便鉄道法」を施行した。軽便鉄道法で要件を寛容にし、動力には人力や馬力なども認め、認可さえ受ければ道路上や川の土手でも軌道を敷設できるとした。1911(明治44)年には、軽便鉄道の敷設を推進するため、軌間762mm以上の路線に対して開業後5年間(後に10年間に延長)は政府が5%の収益を補償する軽便鉄道補助法(明治44年)が公布され、これが契機となって軽便鉄道敷設ブームが全国に巻き起こったのだった。このブームは1919(大正8)年に軽便鉄道法が地方鉄道法にとって替わられるまで続き、建設された軽便鉄道の殆どは省線の目ぼしい駅と近郷の集落や温泉等の行楽地を結ぶ、今日ではバス路線にとってかわられる小規模なものだった。

山脇延吉氏が鉄道の建設に乗り出した要件の一つに、箕面有馬電気軌道が1913(大正2)年に宝塚〜有馬温泉間の敷設権を難工事を理由に放棄したことがある。箕面有馬電軌の小林一三社長のトンネル嫌いは有名だが、蓬莱狭と言う地質の悪い急峻な谷合に線路を敷設するデメリットを考えると、宅地開発に向かない山間地が沿線になる状況では、温泉への行楽客だけを相手にしていては採算が合うはずがないと考えた上のことだろう。将来の採算性は三井物産出身の小林一三氏にとっては、大枚を投じた上の有馬温泉から得られる利益よりも、温泉を含めた宝塚開発の方がはるかに確実性が高い優良案件だったのではないかと想像される。有馬温泉にほど近い地元の住民である山脇延吉氏には、小林一三氏の沿線の活用によって鉄道の将来が決まるという考えは農業学者山脇延吉氏には理解し難かったのではないだろうか。

山脇氏は、三田の賑わいを目の当たりにして道場地区の振興と有馬温泉の繁栄には鉄道が絶対欠かせないと確信した矢先、箕面有馬電軌の有馬延長計画が消えてしまったのを受けて、三田から有馬温泉経由で神戸へ通じる鉄道の建設を今こそ実行に移さなければならないと決意したのだった。在所であり開けた地域で工事が容易な三田有馬温泉間に、省線三田駅から道場を経由して有馬温泉に至る鉄道の敷設を計画、地元の有志を募って有馬軽便鉄道を1913(大正2)年に設立、蒸気機関車により客車貨車を牽引する三田〜有馬間12.2kmの単線鉄道の建設にとりかかった。工事は支障なく捗り、1915(大正4)年4月16日に省線三田駅と有馬駅との間が開業した。有馬駅の場所を有馬温泉の北側の町外れに持って行ったのは、機関車が出す煙が温泉宿から敬遠されたのだろう。神戸延長を考慮していただけに、道路の片隅や川の堤防を利用する様な貧弱なものではなく、貨物の受け渡しも考慮して省線と同じ軌間の全線専用軌道の鉄道で、途中の新道場駅と有馬口駅は交換可能駅だった。なぜ電鉄にしなかったのか不思議なのだが、三田地域は都会地から遠いうえ山地に阻まれているため電力事情がよくなかったのだろうと想像する。それとも鉄道省から借り上げを前提として蒸気鉄道にしてくれとの内示があったのかも知れない。開業と同時に鉄道院が一ヶ月23.000円の賃貸料で借り上げ、福知山線の支線として運用することになり、神戸港で使用していたボールドウイン製のタンク式蒸気機関車の3050号と3051号を移転して使用、2等車を含む大型ボギー木造客車4両編成を使用して旅客輸送の営業運転を開始するとともに貨物輸送も始めた。旅客列車が6往復で三田〜有馬間の所要時間は35〜40分程度だったようだ。既に阪神急行電鉄(阪急)に改称していた箕面有馬電軌が1920(大正9)年7月十三〜上筒井(現在の王子公園駅の西方)間を複線で開業し、翌1921(大正10)年9月には宝塚〜西宮北口間に西宝線(現阪急今津線)を単線で開通し、宝塚から神戸までのアクセスはとても便利になったのだが、三田から宝塚に出るには一時間ほど、宝塚で阪急に乗り換えても大阪へは一時間半、神戸へは二時間ほど掛かっていたようだ。

 
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3051号 臼井茂信著「機関車の系譜図」より
 

有馬鉄道を鉄道院が借り上げてくれたことで一定の収入が確保できたが、山脇氏にとっては誤算でもあったようだ。三田宝塚経由の県庁への出勤は以前より便利になったとは言え何分不便で、特に県会議長になってからは神戸に出向く頻度も増え緊急時に間に合わない恐れもあり、有馬軽便線の神戸延長を画策して、地元の顔としてまた兵庫県会の代表の立場で、鉄道院の幹部官僚や中央政界の有力な政治家に頻りに働きかけていたようだが、その甲斐なく1919大正(8)年に有馬軽便線が強制的に国に買い上げられ省線有馬線になり、神戸延長の実現が不可能になってしまった。その結果、有馬軽便鉄道の経営者たちは新たに有馬〜神戸間の電鉄の実現に取り組むことになった。
神戸〜有馬温泉間に電鉄が計画されていると知ると、六甲山の北側には殆ど関心が無かった神戸の庶民にも有馬温泉は別格で、それが電車で行けると言うのだから話題が沸騰し、電鉄実現への期待が大いにたかまった。好評判を背景に山脇氏は、「神戸と有馬の間に電車が走れば、神戸の庶民には温泉が身近になり、温泉は大いに賑わうだろう。有馬温泉で省線有馬線と結べば、三田・道場辺りの米・野菜・果物と言った新鮮な農産品が神戸の庶民の手に入り易くなり消費が増え、農業の振興に大いに寄与する上、神戸の新鮮な海産物が北摂地域でも手に入りやすくなり農民の食生活が大いに改善される。福知山線と連絡すれば神戸と篠山・柏原・福知山・舞鶴との往来も便利になり、その恩恵は計り知れない。」と神戸や関西の政財界に根気よく根回しを続けておられた。また、神戸市は製鉄造船等の重量大規模工場の進出で人口の膨張が甚だしく、市街地の狭さが悩みの種だったこともあり、電鉄開通の暁には裏六甲を新しい住宅地として開発出来ると見込み、山脇氏が神戸政界の有力者であり積極的に支援したようだ。
「投資家各位に、神戸有馬電気鉄道は省線有馬駅を経て三田駅と連絡。名は神戸有馬電気鉄道と称するも実は陰陽連絡電鉄」「開業後は九分の配当をし、三年後には年五分の配当を維持する」と宣伝する氏の日常の尽力が功を奏し、地元神戸以外に東京や名古屋、大阪、京都からも出資に応じる者が現れて資金集めの目途もたち、協力者が集い発起人会の設立にこぎつけた。平清盛の福原の都の中心だった平野(ひらの)の上三条町を起点に、有馬線の終点有馬駅との間に、山田村の小部地区(現鈴蘭台)や播磨街道の宿場谷上(箕谷)を経由して有馬街道沿いに電気鉄道を敷設する免許を申請したのが1922(大正11)年11月で、翌1923(大正13)年6月には免許が下りた。平野は市電の終点で省線神戸駅や県庁市役所に比較的近く、有馬街道が神戸と有馬温泉を結ぶ唯一自動車が通行可能な街道だった所為もあってここが選ばれたのだと思う。神戸政財界の強力な支持を受けて1926年3月に創立総会を県会議事堂で開催し、万々歳のなか資本金500万円の神戸有馬電気鉄道株式会社が発足した。一株50円年五分の配当で10万株を、一般公募に乗り出した。

1923 (大正12) 年の関東大震災は東京に未曾有の被害をもたらしたが、日本経済をも崩壊させてしまった。関西は震災の影響が比較的軽かったのだが、1929年10月24日ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したのを切っ掛けにアメリカで起こった取り付け騒ぎで銀行倒産が蔓延し金融恐慌が世界中に広がりました。日本も大恐慌の波に飲み込こまれ、各地で取り付け騒ぎが多発して銀行の倒産が相次ぎ極度の信用不安に陥り、川崎造船所や三菱造船所のような大工場が資金繰りに行き詰まったり、神戸を代表する総合商社で、神戸製鋼所や豊年製油等の名だたる大メーカーを傘下に持つ鈴木商店が倒産したりして日本経済が大混乱に陥り、山脇氏の家業の銀行も取り付け騒ぎの果てに破綻してしまったのですが、特にこの不況のあおりを食ったのが電力業界でした。
1914(大正3年)に勃発した第一次世界大戦のおかげで日本は欧州へのあらゆる物資の生産拠点として戦争需要に沸き、製造業を中心に経済が大いに発展し空前の好景気時代を迎えました。造船などの重工業や紡績などの大規模機械設備工場が雨後の筍のように出現し、エネルギーとして電力の需要が急激に伸びたせいで電力会社が乱立気味なほど増え、各社が我が世の春を謳歌していたのですが、大不況で電力需要が極端に落ち込んでしまいました。大小を問わず全ての電力会社が生き残りをかけて顧客の獲得に血眼になり、比較的信用の低い企業でも新しい顧客にどんどん取り込んだあげく、大量の不良債権を抱え込んで四苦八苦の中で、地方鉄道業は政府が売り上げの五分を保証してくれる上、規制が緩く申請も簡単とあって魅力ある事業だと分かったのでした。不況期の手っ取り早い起業として鉄道建設計画が日本中に登場しました。とくに煙突から火の粉を巻き散らさない電車は道路上や住宅密集地をも走行できるので重宝され、電力会社が電気を大量に消費してくれる電気鉄道会社を見逃すわけがなく、将来の安定した大口顧客として、市街電車郊外電車地方鉄道の分け隔てなく、その建設に積極的に参画するようになったようです。

電鉄建設ブームの中とは言え、いざ動き出すと好事魔多しの例え、神戸と有馬を結ぶ鉄道の建設は省線の駅と近くの町を繋ぐ線路を道路脇に敷設する様に簡単には行かないわけで、屏風のように立ちはだかる地質の悪い六甲山を相手にするのですから、建設予定沿線の大半が道路建設もままならない山間部、平野から有馬に向かうには天王谷を経由するのですが勾配が急峻な上に地質がもろくて土砂崩れが頻繁に発生する土地柄です。ここに線路を敷設することは当時の技術水準ではほぼ不可能に近く、建設資金の計算がままならない工事区間が続出して、結局は建設計画を根本から見直さざるを得なくなりました。
大阪電気軌道(現近畿日本鉄道)が生駒トンネルの建設の為に膨大な借金をした結果金利の支払いに耐え切れず倒産した事例を見ています。無理はしてはなりません。小部地区まで軌道の敷設が比較的容易な地形を求めた結果、神戸のターミナルを約二キロほど西方の湊川新開地近辺に移し、会下山(えげやま)の東端から刈藻川(かるもがわ)を見下ろす山腹を登り、鵯越を経由して武庫郡山田村小部地区にいたるルートが、急勾配になる可能性はありますが比較的工事がやり易いことがわかりました。
有馬温泉で省線有馬線と接続する計画も、省線に乗り入れ連絡等の列車増発を要請したところ線路に余裕が無いと言う事で断られてしまい、有馬線との接続計画も消えてしまいました。道場村や三田町地域の住民にとっては神戸と直結する鉄道の実現を夢見ていただけに黙って居れず、有馬〜三田間の新線の建設を強く要請してくる事態になり、地元の強い要望を受けて途中の唐櫃(有馬口)から三田に至る支線の建設を追加する事になりました。結局それやこれやで建設計画が当初より大きく膨れ上がってしまい、明確な必要資金額の算定が難しくなり着工が大幅に遅れてしまったのでした。その事が資金集めに大きく影響しました。
着工の大幅な遅れは信用を著しく傷つけました。当時鉄道建設を謳って資金を集めドロンを決め込む『鉄道ゴロ』が横行していた所為もあり、神戸有馬電気鉄道の実現を疑問視する風評が流され、新会社そのものに疑いの目を向ける者も現れたり、巷に「神有電車なんて、あんなもんあかんで、はったりやで。道もまともにでけへんとこに電車が走れるわけないやろ。」と風評が流れるようになり、不況も災いして株式の引き受けが捗らない上に出資を撤回する者もあらわれ建設資金がなかなか集まりません。特に、善き友人で神戸経済界の重鎮でもあり電鉄建設になみなみならぬ意欲を持っていた、兵庫電気軌道(現山陽電鉄)の創業者で日本毛織の川西清兵衛氏が、家業の業績不振を理由に出資辞退を言ってきたのは致命的な打撃で、新会社そのものが『鉄道ゴロ』のように思われて信用が地に落ちてしまい、資金集めの目途が全く立たなくなってしまったのでした。家業の道場銀行を清算した山脇氏は、田地山林等の個人財産を処分したりして資金集めに奔走したようですがなかなか巧く行かなかったようです。

神戸有馬電気鉄道の開業に最も貢献したのが日本電力株式会社でした。日本電力株式会社は五大電力会社の一つで、大阪商船とその子会社宇治川電気(現関西電力)が共同出資して1919年12月に設立した法人で大阪に本社を置いていました。当時「日電(にちでん)」と呼ばれ、第一次大戦後の好景気の波に乗って増え続ける関西地方や中部地方の電力需要に答えるべく、庄川や黒部川流域に水力発電所と長距離高圧電線を建設し、関西や名古屋地方の電力会社に電力を供給することを目的としていた会社でした。
会社設立直後から景気の後退が始まり、電力需要が伸び悩みだして電力会社が電力の購入を躊躇しだしました。備蓄の利かない電力需要の落ち込みは即業績の悪化につながりました。生き延びる為には形振りなどかまっておれず、大工場等の大口需用家に対して直接に営業を仕掛け、お得意だった既存の電力会社と激しい顧客の取り合い合戦を繰り広げるようになりましたが、最終需用者との直接取引の経験が浅かったため苦戦を強いられ、当時ブームになっていた電鉄建設にターゲットを絞って、電鉄ならば何でも好いと地方の中小私鉄にも手を広げて行ったようです。
そんな日電にとって、神戸有馬電気鉄道は急勾配区間が多い比較的長距離鉄道で大量の電力消費が見込まれ、社長が兵庫県会議長で土木学と農政の権威であり、おまけに名だたる資産家とあれば、芳しくない評判を差し引いても極めて上等な金の卵に見えたのだと思います。日電の子会社で、小林長兵衛社長が率いる日本工業合資会社が工事を請け負う条件で、川西清兵衛氏の出資分の肩代わりを申し出てくれました。そこでやっと建設資金の確保に目途がつき、山脇氏の血の滲む様な苦労が報われました。日本工業合資会社は建設工事費を株券で受け取る事を了承し電鉄の資金負担が少なくて済むように配慮してくれ、電力の供給も日電が引受け、1927年5月なんとか着工にこぎつける事が出来たのでした。小林長兵衛社長はさらに高利貸しに借りてまで五十万円ほどの資金を工面してくれたりしました。山脇延吉社長が私財を投じて電鉄建設に情熱を捧げる姿に感銘したからだと言われています。鉄道や道路を建設する会社の社長を務める方ですからかなりの親分肌の人物だったのでしょう。建設工事費を株券で支払う事は神有電車の台所を非常に楽にしてくれましたが、日本工業合資会社の持ち株がどんどん増え、ついには筆頭株主として経営にも参画して行く事態を招いたのですが、山脇延吉氏の立場では如何ともしがたかったことでしょう。

急勾配や急曲線が多く、速度と制動方式に規制が掛かる山岳鉄道に法規上位置づけられてしまう事は当初から予測できたことでしたが、低速度の鉄道が当たり前だった時代、それが将来に禍根を残すことになるとは思わなかったようです。限りある資金で鉄道に不向きな地形に線路を敷設するのですから、安価な土地を求めて地形に従順に敷設を進めてゆきました。費用の節約が至上命令でまた苛酷な労働環境が予測されるため建設工事に携わる労働者は、労賃を安く抑えるために日本人労働者の雇用を避けて労働者の殆どを朝鮮半島で募集しました。神戸に朝鮮半島や済州島出身者が多いのは神有電車の建設工事が原因だと言われています。一千五百人近い朝鮮人労働者を使用して、人海戦術で工事が進められたのでした。
戦前の土木工事の現場は至って過酷で、労働者を『たこ部屋』と呼ばれる飯場に軟禁して長時間労働を強いるのが常識でした。この常識を上回るほど危険で過酷な現場作業が強いられたために事故が絶えず、待遇も口実をつけてはケチるため逃げ出す者が絶えず、その都度やくざを使って暴力で連れ戻す事件が多発して世間の顰蹙(ひんしゅく)を買い、そんなこんなで工事はなかなか捗りませんでした。東山トンネルでの落盤事故、丸山付近での土砂崩れ、菊水山付近でのトロッコの脱線転覆事故等々事故が続き、そのうちの五件は死亡事故で十三名もの犠牲者が出ました。あまりにも酷い扱いに労働者の憤懣が爆発してストライキが発生、やくざの力を借りて押さえに掛かったのですがこじれてしまい暴力闘争に発展、大きな社会問題になりました。労使紛争の様子が連日新聞紙上を賑わす始末で、電鉄会社としては大株主でもあり恩義のある日本工業に強いことも言えず、事件は日本工業が大幅に譲歩して解決はしましたが、工事は遅れに遅れて建設費がどんどん膨らみました。湊川〜小部(鈴蘭台)間の工事にかかった費用だけで当初の資本金(500万円)を食いつぶしてしまい、有馬温泉まで全線複線で開通する予定が、小部(鈴蘭台)以東有馬温泉までは単線で開通せざるを得ませんでした。 開通の見通しが立ったものの山岳鉄道用の車両の手当てがつきませんでした。急勾配区間での安全な運転が必須条件のため、出力が強く抑速ブレーキと停止ブレーキを併せ持った山岳鉄道用の電車が必要なのですが、欧米メーカーの技術力が頼りだった時代の車両メーカーにしてみれば、つぶしの利かない特殊な電車の製造は、何らかの事情で引取りを拒否されると転売が難しく元も子も無いわけで、余ほど確かな保証がなければ製造には二の足を踏む状況でした。日本電力がバックアップしているとは言え、その日本電力が新進の電力会社で、傘下に小田原電気鉄道のような倒産会社を抱えていて信用度がいま一つの上に、工事現場の事故やそれに纏わる事件が多発して開通が遅れて社会的信用が落ちる神有電車は「触らぬ神に祟りなし」とばかり、地元神戸の川崎造船所を初め名だたるメーカーが、特殊車両を口実に断るか高額な制作費を提示したりして「けんもほろろ」だったようです。 そんなところへ日本電力から「日本車両が登山鉄道用の電車を十両余り抱えて困っており、何とか換金したいと躍起になっているらしい。これなら安く買えるのではないだろうか。」との情報が舞い込んで来ました。「渡りに船」とばかりに日本電力を通して日本車両と交渉の上、デ1形電車10両とデニ11形電車4両を購入し、やっと開業の目途が立ったのでした。

 
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デ1形電車のデ6番の写真です。1957年3月に鈴蘭台駅に隣接の車庫で写しました。
 
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デニ11形電車のデニ14番の写真です。1957年3月鈴蘭台車庫にて写しました。
 

日本電力が電気を供給していた小田原電気鉄道が、箱根登山線の箱根湯本〜小田原間延長に際して従来使用してきた木造車両を半鋼製車に置き換えるべく、登山鉄道仕様の電車十四両を日本車両で新造したのですが、1928(昭和3)年1月に重大事故が発生、車両火災にも見舞われて多額の損害を出して倒産したため最大の債権者日本電力が会社の更生を引き受け、吸収合併して日本電力小田原営業所として営業を引き継ぎましたが、電鉄の負債を整理する中で小田原延長工事が中止され、電車の新造をキャンセルしてしまったのですが、既に完成していた「つぶしの利かない山岳用電車」が不良在庫になるのを恐れた日本車輌が引取を強く求めたため神有電車を紹介し、購入する事に落ち着いたようです。600v電圧1435mm軌間仕様を1500v電圧1067mm軌間仕様に変更のうえでの購入でした。
デニ11形電車はデ1形電車の有馬側の客室の一部の座席を撤去して荷物専用扉を設け、荷物室合造構造にしたものです。乗車定員100人(デニ11〜14は70人)の15メートル車両で、製造当初から乗降口にドアステップが設けられており詳しい数字は資料がないため判りませんが、実質の車幅は2.6m余り程度だと思います。車体は日本車輌が地方の私鉄向けに製造していた標準スタイルの半鋼製で、前照灯は着脱式で正面窓下の金具に吊り下げられ、塗色は当時の鉄道車両として一般的な鉄さびの見えにくいチョコレート色、窓は落とし込み式、ドアエンジンが無く手動開閉の木製扉、前面中央窓の位置が運転台で、客室とは白色の琺瑯引きのパイプの柱で仕切られて、運転手は立ったままで運転していました。

屋根部や内装は木造で、腰高で奥行きが浅く背刷りが深い緑色モケットを張ったロングシートが扉間に四つ配置されていた。93kwモーター4機を備え、連結運転を前提にして間接制御方式を採用しました。間接制御方式とは電車線電流を運転手が扱う制御器(マスコン)に通すことなく、低電圧の指令電流をマスコン内のスイッチを通すことで、電動車の床下に装備された主制御器がその指令を受けて抵抗を繋ぎ変えモーターに掛かる電圧を調整する方式です。モーターに負荷をかけて抑速する抑速ブレーキを常用する為、マスコンは三菱電機製で総括手動式でした。空気ブレーキは停止用に使うだけですので構造が単純で故障が少ない直通式の真空ブレーキが採用されました。このブレーキは路面電車などに多く使われて広く普及していたようです。戦前に製造された電車には必ず装備されていたチェーンブレーキの丸ハンドルが運転台右側の窓下にデンと構えていました。日本車輌製のB-16型板台枠台車と言う非常に珍しい台車を履いていました。日本車輌が小田原電気鉄道のチキ2形電車用に1927年にスイスから輸入したスイスのシュリーレン製の板台枠台車の模倣品で、砂箱が装備されているので使用したようですが、旅客を乗せる電車用ではなく小型の電気機関車用の台車と言うべき代物でした。見掛けは頑丈そうなのですが、軸箱を支えるコイルスプリングが貧弱なうえ板発条で構成しているボルスタースプリングもかわいいもので、電車のようにボギー間に距離がある構造には不向きだったようです。台車が前後で協調して横揺れを増幅するのか、30kgレールと貧弱な路床にも原因があったのか、速度が40km/hを上回ると激しい横揺れを起こすとにかくすごい台車でした。揺れ様はすさまじく、つり革が網棚の木枠にぶち当たってガチャンガチャンと音を立て、吊り革が本皮だった所為もあり吊り輪にぶら下がっていると、革帯が切れてわっぱがはずれてしまうこともあったようです。この電車を立ったままでの運転は相当きつかったと思います。砂箱は殆ど使われる事無く昭和8年(1933年)には撤去されてしまいました。弓形イコライザーの乗り心地の良い台車が一般的に普及している時代にこの台車が採用された事に聊か首を傾げたものでした。悪評サクサクだったようで、後に登場したデ101形ではボールドウイン台車を模した日車D-16イコライザー台車が装備されました。

 
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開業当初の湊川駅の賑わい(1928年当時の神戸新聞より)
 

開業に備えて、乗務員の訓練を阪急電車に依頼し、勾配区間での運転技能の訓練を南海鉄道に依頼して高野下〜極楽橋間で念入りに行ったそうです。そして1928年(昭和3年)11月28日誰もが待ちに待った開業を迎えました。開業祝典会場の湊川駅はおせやおせやの大盛況で、資金繰りに苦労してやっとの思いで開業に漕ぎ着いた上に、開業当初からものすごい数の乗客が殺到するなんて想像する出来なかったので、関係者の喜びようは尋常ではなく、開業当日全従業員に五銭の大入り袋が配られたそうです。
デ1〜6の6両とデニ11〜14の4両の計10両が開通に間に合いました。湊川から有馬温泉まで44分で行けるとあって、人出を予測して電車をフル稼働して2両連結で14分間隔で運転したのですが、珍しさも手伝ってか営業初日から積み残しが出るほどの盛況で、各乗車口に押し込み担当の駅員を配備したとの記録が残っており、押されて線路に落ちるお客さんまで現れて現場の担当はてんてこ舞いの忙しさで、開業日に湊川駅のホームに立った山脇社長はその混雑振りを目の前にして、開通のお祝いに駆けつけた日本車輌の担当者にその場でデ100形電車十両を発注したそうです。デ1形の未着分デ7〜10の4両は翌年1月早々に入線しました。余りの盛況振りに日本車輌の社員も安心し、「少しでも早く納入しないと」と急いだのでしょうきっと。

12月18日に途中駅の唐櫃(現有馬口)から福知山線三田駅までの三田線が開通しました。三田へは、唐櫃(現有馬口)で乗り換えなければなりませんでしたが、14分間隔で運転している湊川〜有馬間電車の二本に一本を三田連絡にして、28分間隔での運転になり、三田までは湊川からほぼ一時間の行程だったようです。

 
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1968年8月に撮影した有馬温泉駅。増築された4階部分を除くとほぼ原型です。
貨物ホームは物置代わりになっていました。
 

当時の有馬温泉は旅館が三十軒余りの規模の大きい温泉町でした。観光旅館も何軒かはありましたが、湯治場としての伝統を色濃く残しており、農閑期に近隣や三木小野の東播地域や篠山氷上等の農村からの湯治目的の長期滞在者が集まる湯治旅館が殆どで、どの旅館にも内湯の設備が無く、町営の外湯に入るのがしきたりでした。外湯は古来の「一の湯」と「二の湯」そして明治36年にオープンした「高等温泉」だけでした。短くても一週間、普通は一二ヶ月の長期滞在者が当たり前になっていたところへ、突然電車が日帰りか一泊程度の物見遊山客を大量に運んできたのですから驚いたのは温泉で、湯治客と家族同様の付き合いをしていた旅館に一ニ泊だけの遊山客が突然現れても機敏に対応できるはずが無く、永年の仕来たりを簡単に変えれるはずもなかったようです。外湯も押しかけるお客さんの扱いに苦慮して、一人でも多くの人に利用してもらおうと湯治でゆっくりしている客を追い出す始末で、こんな事があちらこちらで起こっていました。「温泉にゆっくりつかって日頃の苦労を忘れよう」と訪れた庶民には「くそおもろない。二度と来るか!」と吐き捨てられる体たらく、長年馴染みの湯治客には「こないなったら二度と来られへんは」と評判を落としたのがケチの付き始めでした。有馬温泉への観光客輸送が目玉で、道場や三田地区の農業振興を目的として開業した鉄道です。同じように人家まばらな所にレールを敷いた阪急電車とは経営姿勢が根本的に違っていて、沿線に住宅地を開発する思想は当初からまったく持っていませんでした。現在のような遠距離通勤が想像すら出来ない時代に道場や三田の人達が神戸に通勤してくれるはずも無く、ましてや篠山や福知山方面と行き来する人の数は極少数です。有馬温泉の評判が地に落ちてしまうと客足が遠のくのは当然で、不況の影響もあって温泉客が激減し、神戸のターミナル駅の湊川が市の中心に出るにも阪急・阪神や省線に乗り換えるにも足場の悪い場所にある事も災いして、デ100型電車が入線した昭和4年5月頃には開通時の混雑が嘘のように客足が遠のいてしまっていました。

 
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デ101形 デ102+デ101二両編成の粟生行き電車、1970年3月鵯越にて
 

デ101〜110十両が1929年5月中旬に全車が入線しました。デ101形は車長15.44m車幅2.73m車高4.125mで、デ1形を基調にして製造された電車でした。所謂日車スタイルで、デ1〜10とほぼ同じ性能でしたが、悪評高きB-16台車は敬遠され、ボールドウインの模倣品D-16が代わりを務めました。D-16台車は弓形イコライザー台車で、ブリル27MCBと並んでクッションが柔らかくて横揺れが少なく、乗り心地が大幅に改善されました

開通当初の賑わいは長続きしませんでした。計画段階で見込んでいた採算予測が見事にはずれてしまい、経営が苦しくなりだしました。五分の配当を約束して資金を募ったことも、この場に及んで応えてきました。電鉄としては、神戸庶民の間の有馬温泉の人気がこれ程に凄いものだとは思いもしなかったのではないでしょうか。有馬温泉にしては怒涛のように遊山客が押し寄せるなんて全く経験の無いことで、成す術すら判らなかったようです。電鉄も有馬温泉も一気に左前になってしまい、そして客足を呼び戻すための涙ぐましい努力が始まりました。
まず、温泉の活況を取り戻す為に第一弾として打った手が、電鉄直営の外湯温泉の開業で、入浴券を湊川駅で購入できるようにしました。湯治客用の町営外湯は湯治客がゆっくり利用できるようにと採った対策の一つでした。旅館の中にも内湯を設けるところが出てくるようになりました。神鉄は更に、日本車輌で我が国初のトロッコ客車テン1を建造し昭和4年(1929年)8月に入線、有馬温泉に開業した直営温泉の入湯チケットをセットした「美人給仕付き納涼ビヤホール電車」を、デ101に牽引させて湊川〜有馬温泉間にノンストップで往復運行したのですが、これは我が国のイベント列車の草分けではないかと思います。

 
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湊川を出て会下山沿いに長田に向かって連続50‰の勾配を登るテン1連結の電車
亀井一男氏が1930年頃に撮影された写真です
鉄道ぴくとリアル誌 No.528号より引用しました
 

温泉入湯券付き納涼ビール電車は、切符を発売するとすぐに完売するほど好評でした。冬場には半室に畳と掘り炬燵を持ち込んで座敷に改装して「熱燗で一杯やりながら行く有馬温泉」と、もう半分にはソファーを置いて充分な暖房を備え、女給さんのお酌でカフェ・ムードを楽しみながら日帰り温泉旅行をと、行楽電車として運転したそうですがこれも結構好評で、太平洋戦争が始まる昭和18年頃まで運転を続けたそうです。ブリルB27-E1台車を装備している写真を見て下種のかんぐりで乗り心地の良い台車が出回っていた時代にこの台車は無いだろう、酒がこぼれたりしなかったのかなと少々気になりましたが、思わぬ特別サービスがあったりして、売り上げ促進さくの一つだったかもしれません。
三田線の開通で福知山線の三田駅に乗り入れたことで、手小荷物や新聞、農産物の輸送と言った新しい事業が開けました。荷物の輸送にはデニ11がとても重宝したので、昭和4年(1929年)9月に無蓋電動貨物車デト1001を建造し、国鉄三田駅からの貨物や沿線の貨物輸送に貨物電車の運転を始めました。貨物輸送が成果を収めるにつれ沿線の農家に野菜や苺の栽培を奨励し、特産物として神戸に運ぶ野菜列車の運行も事業化したりしました。
夫々相当な成功は収めたようで、今日の神戸市北区の道場付近や三田辺りの農業隆盛は山脇延吉氏と神有電車の功績だと言えましょう。二郎のイチゴ・有野の葡萄・酒米山田錦等々、その成果は数えると枚挙にかぎりがありません。しかし、電鉄が赤字体質から脱皮できるほどの効果は無かったようです。

 
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デト1001 1961年11月道場南口にて HOIKUSHA日本の私鉄23神戸電鉄より借用
 

デト1001は昭和4(1929)年に日本車輌で建造した無蓋貨物電車で、トラック形貨物電車構造である以外は制御装置制動機器から台車まで全てデ1と同じ仕様に基づいて製造されました。恐らく道場有野地域で生産される農産物の輸送と保線用資材輸送の両方に使用する目的で建造されたのだと思います。

 

目次

神鉄電車物語

…1. 創業期


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Last-modified: 2014-02-03 (月) 12:02:56 (1962d)