シンテツ電車物語・・・戦後混乱期と神戸電鉄の誕生

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目次

シンテツ電車物語

…創業期
三木電鉄の開通と終戦まで
…戦後混乱期と神戸電鉄の誕生
…リニュアルして再出発(新型車両の登場)

 

戦後混乱期と神戸電鉄の誕生

神戸の空襲は1942年(昭和17年)4月18日が皮切りだった。現在の中央卸売市場付近に数発の爆弾が落とされ、怪我人は出ず建造物が多少の被害を受けた程度だった。空襲が激化したのは1945年(昭和20年)に入ってからだ。この戦争は負けると誰もが思い始めた頃の、2月4日に市街地への無差別焼夷弾爆撃があった。三菱重工や川崎重工などを中心として、周辺の住宅密集地に無数の焼夷弾がばら撒かれ、兵庫から和田岬そして尻池に至る一帯が焼け野原になってしまった。この空襲で焼き出された人達の多くが、大規模工場が皆無の神有三木電鉄沿線にそれこそ着の身着のままで疎開して行った。移り住んだ人達の大半は疎開先に土地を持っているわけでもなく、借家借間住まいで、辛うじて持ち出せた衣類を食料品に代える竹の子生活を余儀なくさせられたのだった。そして3月17日と5月11日、最も酷かった6月5日の空襲で絨毯爆撃を受けて市街地全域が壊滅してしまった。大工場や中小工場そして町工場、ビルでイングや商店街や民家が全て灰燼に帰し、その被害たるや阪神大震災を遙かに凌ぐもので、罹災家屋が14万2千戸、53万人余りが焼け出され、犠牲者が7500人に上るという大きな惨禍だった。鉄道線路も爆撃を受けて壊滅し、神有三木電鉄だけが市街地を外れていたのが幸いして戦災を逃れ、唯一動いている神有三木電鉄の沿線へ、焼け出された人達は命からがら逃げのびたのだった。
 
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湊川駅辺りの終戦直後の風景。広がる焼け野原の中を国鉄の高架線が横切っている。
手前の建物は新開地の温泉劇場の残骸、斜めに伸びる道路が多聞通で、湊川神社の森と神戸地方裁判所の建物が見えている。 神戸新聞より
 

1945年8月15日に終戦を迎えた時には、神戸の市街地及び阪神間から大阪市街にかけて見渡す限りの焦土が広がり、生きる気力も失って焼け跡に座り込む人、食べ物や使える物を求めて焼け跡をあさる人、あても無くさ迷う人、物乞いをする子供等の姿ばかりが目立ち、雨を凌ぐための黒こげのトタン小屋が雨後の竹の子のように現れ、電線や水道管がずたずたで電気も水もない生活を余儀なくされた。終戦は新しい混乱の始まりだった。戦時体制が経済を停滞させていた上に、戦時統制の名残の配給は全く機能せず、物価の狂ったような高騰でお金が紙くず同然になり、通貨が役目を果たせず物々交換が当たり前になっていた。追い討ちをかけるように、1945年46年は日照り続きの大凶作で食糧不足は飢餓状態同然で社会不安が極限に達したのだった。持っている物を食糧に換え、交換する物が無くなれば盗みを働いてでも食うのが当たり前になり、強盗や殺人は日常茶飯事だった。戦地から引き揚げてくる帰還兵や、満州や朝鮮からの引き揚げ者を満載した船が神戸港に停泊するようになって間もなく、9月25日に米国の軍艦が埠頭に接岸しアメリカ軍が進駐して来た。神戸駅北側の焼け野原を接収して蒲鉾兵舎を連ね、市の中心部に広大な米軍キャンプが出現した。米兵が警察官の代わりをするようになって治安が少しずつ回復されだした。11月には戦後初の人口調査が行われ、神戸市の人口は38万人足らずで、戦争直前の三分の一になっていた。

アメリカ軍の横流し品が出回り出すと、闇市が氾濫するようになり、米兵相手の商売女や、基地労働者、キャンプの芥の払い下げを受ける業者、戦災孤児を集めて靴磨きをさせる商売等が生まれ、米兵専用のバーや淫売宿や部屋貸しが新たな商売として出現した。闇市には、米軍横流しの衣料品や缶詰や菓子類に煙草を扱う店やバクダン(アルコールを水で割った飲み物)などの密造酒屋が現れ、闇米を量り売りする店や古着を扱う店が賑わい、めぼしい場所にはジャンジャン市場(バラック作りの店が軒を連ねる闇市)が出現した。どの鉄道も稼働出来る車両が不足して運行回数が極端に減っているにも関ず、食料買出し客達や引き揚げ者が押し寄せ超満員状態を呈していて、戦災による車両の損傷が無く他線に比べてスムーズに運行できた神有三木両電鉄は、米や野菜を買い出しに行く闇屋も殺到し手の施しようのないほど混雑した。新たに車両を新造購入出来る社会情勢ではないので、手持ちの電車や施設を酷使する日々が続いた。

1945年11月18日、二両連結の湊川行き普通電車が超満員の客を乗せて鵯越〜丸山間を走行中に抑速ブレーキが利かなくなり、現場が33‰の連続下り勾配区間だったためどんどん加速し、丸山〜長田間の下り勾配をともなった曲線部で制限を遙かに超えた高速で脱線転覆、死者48名負傷者180名以上の犠牲を出す大事故を引き起こした。動転した運転手がブレーキ操作を誤ったため起こった事故と判断されたが、停電が頻発する中、整備の行き届かない電車に定員を大幅に超える乗客を乗せて、保線状態の悪い線路を走らざるを得なかった事情が背景にあっての事故だと思う。この事故は沿線住民に少なからぬ衝撃を与えた。

 
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1945年11月18日に発生した事故の犠牲者の鎮魂を願って建立された地蔵菩薩と粟生行普通電車 1970年5月3日鵯越駅にて

1945年当時、肥薩線列車退行事故や八高線列車の多摩川鉄橋上での正面衝突事故など死者50人を越える大事故が多発していたため、他の事故に比べると地味な扱いですんだようだが、関西の私鉄で起こった戦後初の大事故だった。二年後近鉄奈良線でもブレーキの故障による大事故が発生、上本町行き急行電車に使われていた木造電車のブレーキが生駒トンネルを走行中に利かなくなり、下り勾配で加速暴走して東花園駅で前方の普通電車に追突して車体が大破、49名が死亡した。特に一両目は原型さえも留めていないほどだった。原因は戦中戦後の酷使の結果、老朽状態で放置されていたブレーキホースの破損とされた。代替交通手段が皆無に等しかった時代で、整備の行き届かない車両や施設を抱えて、深刻な車両不足にも関ず、押し寄せる乗客を捌く為に、夫々の鉄道がわずかな職員と動かせる電車を総動員酷使して運転を強行し、小さな事故や故障は日常茶飯事だった。とにかく世の中全体が荒んで、今思い返しても恐ろしい時代だった。

1946年2月17日突然に金融緊急措置令が実施され、預金が凍結され新円への切り替えが強行された。深刻なハイパーインフレの沈静をねらい貨幣を復活させる為に打たれた強攻策だったが効果が余り出ず、深刻な食糧不足と人手と資材と頻繁に起こる停電の所為で産業の復興が一向に捗らず、ハイパーインフレを抑え込むことが出来なかった。ついにGHQが指導権を発揮し、米国の余剰農産物をフルに使って食料援助を積極的に行い、GHQの意向を受けて政府が、財閥解体を進める傍ら電力会社を地域別に統合し電力の供給を促進し、資材や電力を鉄鋼や石炭繊維等の基幹産業に重点配分する傾斜生産方式政策を採ったり、復興金融公庫を設立し産業再生を促進するようになって、やがて神戸にも復興の足音が聞こえるようになり活気を取り戻しだした。経済の混乱が回復するにつれ神有三木両電鉄の沿線に避難した人達が神戸に働きに出るようになり、電車を利用する人が日増しに多くなっていった。経済情勢が好転する中、行商人や担ぎ屋が大量の荷物を持ち込一方で一般乗客との間にトラブルが絶えず、担ぎ屋の荷物で怪我をしたとか、担ぎ屋と殴り合いの喧嘩をしたとか言う話がよく聞こえてきた。警察による闇屋の取り締まりも頻繁に行われ、その都度乗客が巻き込まれる騒ぎが起こり、一般利用客にとっては最悪のサービス状態だった。こんな状態に会社は手を拱いていたわけでなく、担ぎ屋専用電車や荷物電車を運行したりしたが、たいして効果が出なかったようだ。

復員して来た職員の数も日増しに増えて来て、逼迫する輸送量への対処と生還した職員達の職場の確保、1945年の大事故を踏まえて荒廃した設備を刷新し信用を回復することが早急に解決すべき問題となっていた。全社上げてこの問題に取り組む為、ダミー子会社三木電鉄の吸収合併方針が打ち出された。神戸有馬電鉄は未だ債務超過の状態だったので累積債務を清算すべく減資し、三木電鉄は業績好調につき積み立て利益剰余金を資本金に加えて増資の上、1947年1月9日合併し神有三木電気鉄道株式会社が誕生した。初代社長に当時神有三木両社の社長を兼務していた小林秀雄氏が就任した。神有三木電気鉄道株式会社は物価高騰に対処すべく1947年7月と1948年5月と1949年3月と三度にわたって増資し、合併当時685万円だった資本金を12倍弱の8000万円に引き上げた。インフレがいかにすさまじかったがこのことからも判断できる。1949年4月28日に社名を神戸電気鉄道株式会社に変更、同年6月に株式を上場し、資金を集め易くして車両や線路等の荒廃した施設の更新を押し進めたのだった。

1947〜8年頃は世の中が多少落ち着いて来たとは言え、未だ極度に物の無い時代だった。 運輸省が特に都市部で深刻な車両不足を緊急に緩和するために、資材不足を理由に粗悪で不完全な設計を当然とした標準仕様を作成し、この仕様に基づいて63形電車を量産して国鉄に投入し、代わりに稼働可能な旧型車や焼失車両の残骸を大手私鉄に払い下げさせ、譲渡を受けた私鉄各社で再生して使用するのを奨励する政策をとった。私鉄の車両再生向けに規定したのが私鉄郊外電車設計要項だった。国鉄から大手私鉄に、大手私鉄から中小私鉄へ譲渡が進むことで車両不足を補う政策だったが、それぞれの鉄道会社の事情から狙っていた効果が出なかったようだ。政策の行き詰まりの打開方法を探るため個々の鉄道会社と話し合ううち、それぞれの鉄道会社の事情を理解し、1947年に私鉄向けの電車の標準規格を制定し、この規格に沿った車両であれば新造を許可する方針に切り替えた。と言っても厳格な基準ではなく、17m級のA型と15m級のB型の標準モデルと、各社の事情によって車体幅を変更した派生モデルを用意してニーズに応えたのだった。ボディー部材の規格化や電装や制動方式が標準化されたものの、実際には各鉄道会社の在来規格に合わせて製造された。この結果、製造された電車が「運輸省規格型電車」だ。1950年頃まで大量に製造され、私鉄の輸送力回復に大きく貢献した。

 
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デ203とク141 1966年11月大池駅にて

そんな中予ねて川崎重工に発注していた新造車デ201〜203の3両が1948年7月入線した。戦後初の純粋の新造車であり、初の運輸省規格型電車だ。
正面が軽く弧を描いた非貫通両運転台車両ながらも、要項に忠実に従った擬装の半鋼製車両で、車長が15米81糎、車幅が2米70糎でB型規格に基づいて製造された。深い幕板、d2D8D2dの窓配置、客室扉の自動化、窓高が低い上段固定式下段上昇式の上下二段窓、絶縁シートを拭いた木製屋根、柴田式連結器の採用等々、運輸省規格型電車の特徴を見てとることが出来る。要項には山岳鉄道車両に関する規定が無かったため、曲線区間での視界確保のために中央運転台方式を継続採用、制御装置や制動装置及び動力関係から台車に至るまで全てデ101形そのままを引き継いだ。アンチクライマーは入線時は装備してなかったが、後年取り付けられた。地方私鉄に過ぎなかった神有三木電気電鉄に、大手私鉄の戦災再生車が入線せず車両新造枠が認められたのは、線路条件に合う再生車両が無かったからだろうと思う。 自動扉付きで、シルとヘッダーが平帯の電車は、旧来の電車を見慣れた目にはとても新鮮に映り、子供心にシンユウ電車もこれからは阪急電車に負けない良い電車が走るようになるだろうと期待したものだった。

 
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デ204+デ203 1968年11月鈴蘭台〜菊水山間にて

翌年の1月に204〜208が入線した。前面窓と乗務員扉の上部が多少高くなり、イメージがかなり変わったが、それ以外の仕様は201〜203番と同じだ。単車でまたは第二次201型同士の二両連結運転で主に使用されたが、この5両の入線で車両事情にゆとりが出来て、整備がかなり捗るようになったようだ。なお、デ201〜208番の写真は、窓周りが薄緑色、腰回りがクリーム色時代のものだが、入線時は在来車同様チョコレート色だった。

1948年頃から米ソ間の冷戦が深刻になり出し、共産圏国に対峙する最前線として日本列島が重要視されだし、日本経済と社会の安定が米国政府にとって最重要案件となり、米国の名だたる経済専門家が色々な意見を発表しだしたなか、GHQの経済顧問だった銀行家ジョゼフ・ドッジが立案勧告した財政金融引き締め政策をマッカーサーが採用し1949年3 月7日に実施した。これがドッジ・ラインで日本経済の自立と安定のために実施されたインフレ対策の政策だが、日本国内の消費抑制と輸出振興が軸となってはいるが、為替レートを1ドル=360円の固定レートに設定し、緊縮財政や復興金融公庫融資の廃止等の超均衡予算を強要、日銀借入金の返済などの債務償還の優先を指導、戦時統制の完全廃止を要求、アメリカ並みの自由競争の導入促進をせまった。これぐらい過激な政策を押しつけなければ日本の経済混乱は治らないと思った上でのことなのだろうが、更に公務員や大企業の人員整理及び農地改革が同時並行で実施されたため、元々ひ弱だった生産力がそがれ、産業の混乱で世間には失業者が溢れ、インフレは収まったが「ドッジ不況」と呼ばれた大不況に陥り、労働運動が多発して、共産主義の浸透をおそれたGHQが労働運動の弾圧を強力に推し進めて社会が混乱し、ひいては日本経済を瀕死状態にしてしまったのだった。 大不況では闇屋は食っていけず急速にその数を減らし、つれて担ぎ屋も激減し、大きな荷物を抱えて我が物顔に振る舞うおばちゃん達の姿がぱったりと消えて神鉄電車の混雑が劇的に改善された。大不況が電車の異常な混雑を正常にしたというのも皮肉な話だ。
神鉄沿線は地理的な条件でインフラの整備が非常に遅れていた。この事に注目し、1949年国鉄に有蓋貨車2両を含め11両の貨車を払い下げてもらい、デニ11に引っ張らせて湊川と有馬温泉の間に鮮魚専用貨物電車の運転を始めた。これが非常に好評で、それまで鮮魚野菜類等の運搬を担ぎ屋に頼っていた旅館が貨物輸送便を利用するようになり、戦前に盛んだった沿線農産物の輸送や三田駅での貨物の引継ぎ輸送も再開、貨物輸送が軌道に乗ったのだった。
貨物輸送と線路延長工事の資材運搬に使用することを考慮して、1949年4月に三菱重工で箱型45t電気機関車ED2001を新造した。制御制動動力装置は全て三菱電機製を採用し、三菱重工業三原工場で新製された。急勾配区間が多いことから運転席に足踏みペダル式の砂撒き弁を設備、牽引力を75tと高めに設定し、発電ブレーキや電磁直通ブレーキを装備した上に、当時は電気事情が悪く頻繁に停電が起こる事を考慮して、急勾配区間で無電源状態で停車しても惰力で動き出さないようにレールに吸着する磁石ブレーキをも装備した。昭和18年にセコハンの気動車三両を購入する資金を捻出するのに減資までやったことを思うと、朝鮮戦争前の昭和24年と言えば物不足とドッジラインによる大不況が深刻な時で、こんな時期に高価な機関車を新造出来るほどの営業成績の好調ぶりに隔世の感がする。この頃が神有三木電鉄の絶頂期だったと思う。

 
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ED2001は三木線延長工事で活躍し、国鉄払い下げの無蓋貨車二両を合体したレール運搬車を牽引してのレールの運送やバラス撒き、諸々の建設資材の運搬等々、寄与するところが非常に多かった。鈴蘭台〜有馬口間の複線化工事でも重宝されたのだった。1963年には国鉄貨車の乗り入れが廃止になって一般貨物運送からは引退し保線業務に特化されたが、バラスの散布やレールの運搬等々にその能力を現在も発揮している。

1949年4月30日、社名を神戸電気鉄道株式会社と改め、同年6月18日大阪神戸の両証券取引所に上場して株式を一般公開した。同年6月にはバス事業にも乗り出し、神戸市電の平野終点と有馬温泉の間で定期バスの運転を始めた。同年10月には新たに免許を取り直して有馬温泉〜三田間の有馬川沿いの道路に山口村経由のバスを走らせた。また、湊川公園の地下にある湊川駅はターミナル駅として立地条件があまり芳しくないので、国鉄神戸駅まで線路を延長し連絡の便を図ろうと神戸駅連絡線免許を申請、1949年5月に敷設免許を得た。この線路延長を実現しなかったのは後々まで悔いを残す大きな失策だったと思う。

1950年6月25日朝鮮戦争が勃発し、同年8月に米軍の在日兵站司令部が直接調達方式で大量の物資を買い付けるようになった。朝鮮戦争特需が始まったのだ。三菱重工・川崎重工・神戸製鋼所が軒を連ねる神戸は我が国屈指の重工業都市で、周辺には協力工場が多く戦艦や軍用車両の修理に最適とされたのか、前線から破損した兵器や車両が大量に持ち込まれたのだった。神戸経済はドッジ不況なんかどこ吹く風と大いに潤った。どこの工場も人手不足で雇用をどんどん増やし、神鉄沿線から神戸の工場へ通勤する人達も急増した。旅客収入が大幅に増えて関西私鉄の稼ぎ頭と言われるほど経営が安定したのだった。好調な業績を背景に、三木電鉄開業以来の念願だった三木〜粟生間の延長工事に1950年12月着手した。1951年3月に四千万円の増資を行って資本金を一億二千万円に引き上げ工事費を捻出、工事は順調に進み1951年12月28日には小野までが開通、翌1952年4月10日小野〜粟生間も完成して三木線が全通し、粟生線と改名した。

 
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デ213 1966年11月大池駅にて

小野開通に備えて1951年2月戦後二番目の新車が入線した。川崎重工製のデ211〜213の三両で、先般のデ201同様運輸省規格型B型に準拠した15米級電動客車だ。性能は前出のデ201と同一だが、前面がフラットな切り妻構造になり、運転席が左側によって中央にドア式の貫通扉が設けられ、連結運転の際車両間の行き来が可能な構造となった。せっかくの貫通扉だったが、当初は単車で運転されることが多く、せっかくの貫通路は余り活躍しなかったようだが、最晩年には211型同士の3両編成運転も見られるようになったが、小型車故にラッシュ時対策に不都合が生じるようになり、後に登場したデ301型などの新型車や、デ801型等の車体更新車に追われるようにして1974年廃車されてしまった。釣り掛け車として、また半鋼製車として最後を飾った電車だった。

朝鮮特需は雇用の機会を増やし、仕事があると言うことは世の中を明るくし、復興を促進し米国式の効率的な工業システムが導入されるきっかけを作った。そして1952年4月28日を迎え米軍の進駐時代が終わると社会が一気に明るくなり、一進一退を繰り返す朝鮮戦争の特需が産業界の近代化を促した。鉄道界でも、ウイングバネ式台車や、小型大容量モーターとカルダンドライブや、軽量モノコック構造車体等々欧米の技術がどんどん輸入され、消化され、新技術が次から次へと生まれて行った。
神武景気時代に入った。糸へん景気・金へん景気と言われてとりわけ繊維産業が好景気に沸いた。神戸は雑貨や繊維製品の輸出と朝鮮戦争関連の物資の出入りで港湾が大いに賑わい、三木や西脇が金偏糸偏景気に沸き、有馬温泉は好景気のお陰で大いに賑わった。粟生線の全通で国鉄加古川線や北条線と接続し貨物輸送は多少増えたが、しかし小野から湊川まで一時間、粟生からだと一時間十分も掛かり、運転本数も一時間に二本程度となると都市近郷の通勤路線としてはいささか不便で、利用客の伸びは当初の期待にはほど遠く増収に結びつかなかった。
世の中が落ち着いてくるにつれて、旅客は微増を続けていたが運賃収入が減りだした。株主優待乗車券の利用者が急増したことが響いたようだった。大阪や神戸の証券取引所に上場したお陰で増資が容易に行えたが、他社に比べるとかなり少額の株式収得で株主優待の全線定期券が貰えるとあって、沿線の住民の多くが株主になったのだが、殆どが優待パスの取得に必要な株数だけを所有して電車を乗り放題にという小口株主で、そんな株主の増加が旅客収入に影響したのだった。電車を利用している間は手持ちの株券を手放す筈が無く、売買が極端に少ない異様な株として、無配にも関わらず株価は常に高値で固定し、購入が最も難しい銘柄として有名だったことを覚えている。運賃が国鉄や在神の他私鉄に比べて割高だったことも原因の一つだったのではないだろうか。
やがて延長工事による負担増が経営を圧迫しだした。運転資金を確保するために1952年7月に一般公募で8000万円増資した。一般公募とはいえ新株の殆どが株主に割り当てられたために、優待定期券を利用する株主乗客の数は減らず、運賃収入を圧迫する状態には変りがなかった。
増資の効果も長続きしなかった。平行する道路の整備が進んで、有馬温泉へは大阪や宝塚や三宮から直通バスが運転されるようになり、有馬温泉行旅客の殆どがそちらに逃げてしまった。沿線に小規模住宅地を造成したり等々、種々手段を講じたが、湊川ターミナル駅の立地条件や、高速運転に不向きな線形、湊川〜鈴蘭台間以外は全て単線で運転密度が上げにくく、組合との協約に縛られて始発電車が遅く終電車が早いダイヤ等が災いした。神戸市内の復興が進むにつれ、「金がなくて神戸の市街地や阪神間に家が持てない人や山ん中のドン百姓が乗る電車」とまで言われ、不便な神鉄沿線のイメージが強調され、分譲地が売れないばかりか沿線人口が減少する始末で、運賃収入がジリ貧状態になりだした。その上、中小大手の私鉄の中でも組合活動が過激な方で、春闘や年末闘争でストライキが度々決行され、他社より長引く場合が多く、長時間に亘る運転の停止は苦しい台所事情をより圧迫したのだった。神有電車開業以来苦しい台所事情の中細々と営業を続けてきた所為で、最小の人員で最大限の効果を上げる雇用形態や、他社に比べて特に大手私鉄に比べて低い賃金が労働運動をより過激なものにし、とにかく神鉄の労働闘争は激しい物だった。暮れのボーナスを払う金が捻出できず、電車線の銅線ををアルミ線に張替えて、浮いた銅線を売却して急場を凌いだエピソードがあるが、この頃の話だそうだ。累積赤字が膨大になり経営が行き詰まりかけ、全線を神戸市に売却する話や、廃線のうえバス路線に転換する話も出た。身売りや廃線の話が新聞に取り上げられても、株を売る動きが起きず、株価は高値で維持され続けていた。1956年いよいよ倒産するかもという事態になって、日本興業銀行が債権の棒引きを条件に手を引き、神戸銀行(現在の三井住友銀行)が主力銀行となり再建に乗り出したのだった。


 

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Last-modified: 2011-12-01 (木) 13:14:52 (2698d)