回想の阪急電車

明治大正の香り木造車

 

(1) 37番

-写真をクリックしますと1024px画像になります-
0001_37mc[進駐軍専用車]_石橋_194804;$.jpg

進駐軍に召し上げられた37番 1947年3月12日石橋駅 浦原利穂氏撮影
鉄道ピクとリアル1998年12月増刊号(No.663)<特集>阪急電鉄 より借用
トップ写真が引用写真で申し訳ありません。記憶に残る体験阪急電車の第1号です。自作の写真が無いので引用しました。
小生、阪急甲陽線苦楽園口駅近くの越木岩の出でして、幼少の頃の越木岩と言えば、田圃と畑と川と溜池の辺りに農家が三々五々集まる田舎で、駅の近くに僅かに新立ち(当時新築分譲住宅をこう呼んでいました)が目立つ程度でした。小学校は夙川小学校、幼稚園は甲陽園日之出町にあった甲陽幼稚園が最も近かったと覚えています。戦争中の昭和20年4月甲陽幼稚園に入園し、苦楽園口から甲陽園まで甲陽線の電車に乗って通園しました。当時の甲陽線は37番が1両でピストンしておりました。甲陽園は播半や甲陽館や鶴屋と言った古くからの料理旅館が、当時別荘と呼んでいた大邸宅が目神山の斜面や麓にぽつりぽつりと目立つ、苦楽園口同様閑散とした土地柄でしたので混雑とは程遠く、こんな小型電車で十分役立ったのだろうと思います。伊丹線用として大正10年4月に堺市鳳の梅鉢鉄工所で3両新造された木造電車の1両で、10メートル52センチの車長に2メートル31センチの車幅、小型ブリル台車B76−E−1を履いた65人乗りの実のこじんまりとした電車でした。連結運転を考慮していなかったのか直接制御で、GE製の50馬力モーターを各台車に一基づつ装備していまして、高さが運転手の脇腹辺りまである黒い大型のマスコンが、扉を開けた途端目に飛び込んでき、チェーンブレーキの大きな手回しハンドルに、エアーブレーキのこじんまりとしたブレーキベン等々がちんちん電車の運転台そのままでした。
甲陽線のある西宮市は海岸に川西航空機や川崎製鉄所等の軍事関連工場が目だって居りましたため、昭和20年頃には米軍機による空襲が度々あり、8月6日の市街地が総なめされた阪神大空襲の頃には甲陽線の沿線にも被害が及び、小生の通う甲陽幼稚園が爆弾で吹っ飛んでそのまま休園になってしまいました。休園になるまでの4ヶ月ほどの間この電車のお世話になりました。天井の低いチッチャな電車で大柄な運転手さんなら頭が天井につかえ、ちょっと背の高い人はお辞儀しながら乗降したものです。もちろん手動扉で、ワルがきが走行中に扉を開けて乗務員さんによくどやされていました。
苦楽園口駅の夙川行きのホームは木造上屋のある舗装されたものでしたが、甲陽園行きのホームは上屋が無く、使い古した枕木を組んだ床の上に土砂を敷いただけのもので、雨が降れば全面水溜りになり、駅の上に張り出した松の枝々から落ちてくる松葉が常に溜まっていまして、駅近くにお住まいの農家のおかみさんがもんぺ姿で、くまさらへで掃き集めておられるのをよく見かけたものでした。夙川行の線路には927と957番だったように覚えているのですが2両編成の920形の電車が疎開しておりまして、粗末な方の甲陽園行きホームが客用になっていました。本線電車の留置は戦後も暫く入れ替わりで続いたように覚えています。
やがて進駐軍がやって来、その後間も無く37番が甲陽線に姿を見せなくなり、7番8番が交替でピストンするようになりました。その後暫く経って大阪駅の5番ホームの北端の建屋の側に懐かしの37番が白帯を巻いたピカピカの伊達姿で停車しているところを見つけ、アメちゃん用になったんだと驚いた事を思い出します。背の高いアメちゃんがどんな恰好で乗り降りするのかを見れずじまいだったのが残念です。
その後37番には二度と出会うことはありませんでしたが、任務を解かれてからは甲陽線に帰ることなく能勢電車に転勤したそうです。ゆっさゆっさと揺れながら走っていた模様を時々思い出すのですが歳の所為でしょうか。
 
_______________________________________
 

(2) 7番

-写真をクリックしますと1024px画像になります-
0002_7mc_甲陽園^苦楽園口_195311;nf.jpg

甲陽園苦楽園口間の33パーミルの勾配を駆け下りる7番 1953年11月某日

37番の後を継いで1957年頃まで甲陽線の主力として活躍しました。
阪急の前身箕面有馬電気軌道が開通に際し用意した18両の電車の中の一台です。小学校の低学年の頃に7番8番が入線して来ました。誕生当時の姿は写真でしか見た事がないのですが、私の知っている7番8番はこんな姿で、窓から下の腰板は鋼板が張られ鋲頭が並び、窓周りから上は木製で、このいかついスタイルをお世辞にも好いとはよう言わないです。腰板に鋼板を貼り付けた木造車で、明り取り窓に瑠璃ガラスがはめられ白い天井には浮き彫りの装飾つきの桟と鈴蘭燈が交互に並び(37番は裸電球でした)、彫刻が施された肘掛など大正の臭いがぷんぷんしていました。貫通扉のところが運転台で、木製の衝立との間がとても狭く天井が低く椅子も無く、間接制御だったので幾分小型にはなっていたGE製のマスコンとブレーキ弁と鎖ブレーキの大きなハンドルが並んでいて、衝立と運転機器に挟まれて立ったままでの運転はとても窮屈そうでした。台車はブリル27Eを履いていまして、走行中は何かを掴んでいないと立って居れないほどよく揺れて、つり革が網棚を叩く音がとても賑やかでした。
当時の甲陽線にはラッシュアワーが無く始発から最終まで7番か8番の単行電車が15分?間隔で往復するダイヤで、中間駅苦楽園口駅構内は複線でしたが、上屋のある夙川行きホームは疎開車両に占領され甲陽園行きホームが使用されていました。その後利用者が増えるにつれて留置線が甲陽行側に移り、留置車が来なくなってからも夙川行きホームを使用しての単線ピストン運転の時期が長く続きました。
全盛期は結構長かったのですが、私が電車通学を始めた昭和30年4月にこの7番が夙川駅で車止めに乗り上げて車体が真ん中で折れてしまい、それが契機で二両とも廃車されてしまいました。最後まで電動車のままで生き残った1形車の一両でした。

 
_______________________________________
 

(3)絵葉書写真の原型3番

-写真をクリックしますと1024px画像になります-
0003_3mc_石橋_1913;$.jpg

鉄道ピクとリアル663号の「絵葉書に見る阪急電鉄の昔」より引用
 

鉄道ピクとリアルNo.663号「<特集>阪急電鉄」誌に白土貞夫氏が、氏が所蔵なさっておられる古き良き時代の阪急電鉄の写真絵葉書を十数枚掲載され記事を書いておられまして、そのなかにこの一枚がありました。この絵葉書は小生も中学生時代に、自宅の近所にお住まいの後に夙川駅の駅長になられた方から頂いたのを所持していましたが、後に電車好きの友人にやってしまい今では少々残念な思いをしております。

京阪神急行五十年史に1形電車を紹介した下りがありますので紹介させて戴きます。

箕面有馬電車開通
明治四十三年三月十日、この記念すべき日に備えて用意された電車は一型と称している中の一号から一八号までの車で、いずれも川崎造船所で造られたものであった。これらはその後、改装されて、今では古い写真でその面影をしのぶに過ぎない。一般にこの当時の電車は路面から、或いは低いプラットホームから乗降し、両端運転台は一段低く、客室との間を扉で仕切られていたものであったが、この電車は現在のような高いプラットホームから直接客室に乗り降り出来て、しかも中央にも出入り口のある至極ハイカラなものであった。
その構造などについて少し説明すると、車体は全長一三米五六、幅二米四一、モニターデッキ(二重屋根)型、定員は八二人の木造ボギー車で、車内は杢目美しいニス塗り仕上げに調和した装飾窓や車内灯クラスター、上品な赤褐色の社章入りテレンプ張りの座席、リノリューム張りの床、といった瀟洒な造りで、外部は現在、阪急色といわれ、五〇年の伝統を誇る小豆色(マルーン)塗地に金色の縁取りで、同じ金色の唐草模様付き社章と車番号がつき、これを動かすモーターは米国G・E会社製直流五〇馬力電動機四台、ブレーキもG・E会社の空気制動機といった、当時の最も新しい電車であった。同型車両はこの年の十月に汽車会社で一〇両、翌年九月には川崎造船所で五両が建造された。

五十年経った後でもこれだけの賞賛が記載されています。阪急史上に誇れる最高級の電車だったのでしょう。
3番も7番も開業に備えるべく新造された一号車なのですが、写真を見た目には全くの別物の感じがします。7番も改装前は3番と同じスタイルの電車でした。
大正11年8月(1922年)に大阪〜池田間に二両連結運転が開始され、翌年の3月には宝塚線全線での連結運転が実施されたのですが、当時の宝塚線の主力だったのが総数33両に及ぶ1型でして、連結運転に際し改装工事が施され7番のスタイルになったようです。7番8番は第一次改装後のスタイルを廃車になるまで守っていた貴重な存在でした。
新造当初から連結運転を想定した機器を装備していましたので、連結運転用に自動連結器とアンチクライマー、連結用エアーホース及び電線用のコネクターが新設され、ボギー中心間を延ばし、車体が台枠一杯に延長されて正面フラットの弧が無くなり角ばった平面に、非常時の乗務員の移動用に両端運転台のまま貫通扉が新設され、延長部分に乗務員用の小窓が新設されました。パンタグラフの装着もこの頃に実施されたようです。
また昭和2年(1927年)には、新製後十数年を経過して車体にガタが来始めていた為の対策が講じられ、腰板に鋼板を張って簡易鋼体化、ヘッドライトを屋根に移し、側窓上部の飾り窓を埋めて木製の巻板を張ったり尾灯を取り付けたりしたようで、車内では飾り窓のガラスの代わりに縁取りのあるニス塗りの板が張られて跡がくっきりと見て取れました。ガーランドベンチレーターの装着もこの時だった様です。

 
_______________________________________
 

(4) 和歌山鉄道804番

-写真をクリックしますと1024px画像になります-
File not found: "0004_804mc_東和歌山_19630616;ybr.jpg" at page "回想の阪急電車 その1…木造車(1)"[添付]

南海貴志川線の804番 東和歌山(現JR和歌山)にて1963年6月16日 嘉和氏写真

昭和30年(1955年)に夙川駅で7番が事故を起こしたのを契機に、甲陽線コンビが2両とも廃車になってしまったのですが、名目上は7番が634番に、8番が635番に改造された事になっています。実際は7番は解体され、8番は台車及び機器類を撤去し車体を当時の和歌山鉄道に譲渡しました。

_______________________________________
 

No.2:21番

 
-写真をクリックしますと1024px画像になります-
File not found: "h=002_1946^0705_tu154-07_塚口_mc21.jpg" at page "回想の阪急電車 その1…木造車(1)"[添付]

伊丹線で活躍中の21番 1946年7月塚口駅にて 浦原利穂氏撮影
この写真当時は当方小学1年生でした。義弟古鉄春秋氏が鉄道友の会の大先輩浦原利穂氏より頂戴した物を拝借しパソコンで修正し掲載しました。当時はフイルムが手に入りにくいご時勢でよく写されたものだと感心しています。
戦中から戦後間もない頃、甲陽線は37番が伊丹線は19番から22番までの四両が単行運転で走っていたように覚えています。600形が神戸線に登場した時点で神戸線系の車両規格が大型化されましたので、西宮車庫所属の木造車は全てステップつきになっていました。乗降扉は手動でして、夏の暑い日に風を取り込むためにわざと開けたままにして車掌さんに怒られたものでした。
当時進駐軍の占領下にありあらゆる公共施設の表示が英文併記が義務付けられ、電車の看板も写真のスタイルの物が使われていました。1944年の占領解除後に改められたと覚えています。
19番から32番までは1950年に半鋼車改造工事を受け、運転台を撤去し広幅貫通路が設けられ中間付随車化されました。しかし台車はそのままブリル27Eでしたので、走行中のローリングは廃車まで変わりませんでした。
_______________________________________
 

No.3:32番

 
-写真をクリックしますと1024px画像になります-
File not found: "h=003_1957^03_ck001_西宮車庫_t32.jpg" at page "回想の阪急電車 その1…木造車(1)"[添付]

付随客車32番 1957年3月西宮車庫にて
19番から32番までは1950年に半鋼車改造工事を受け、運転台を撤去し広幅貫通路が設けられ中間付随車化されました。しかし台車はそのままブリル27Eでしたので、走行中のローリングは廃車までそのままですごいものでした。
中間トレーラーに改造された1形は半鋼製車になり、ドアも自動化されましたが、モニタ屋根や車内の装備などは両運電動車時代と殆ど変わりませんでした。1953年から320形や500形の三連化が行われた際に中間に挟まれて固定編成に組み込まれました。
付随客車1形の活躍の場はもっぱら今津線と宝塚線で、1955年から1958年まで今津線の甲東園にあった高校に通っていた時代この電車の世話になりました。今津線沿線には学校が集中していて通学時間帯の混み様は酷い物で、詰め込まれた状態のままの姿勢が直せないどころかドアが人間の圧力で外側に湾曲するほどで、1形は木製扉だったので扉に押し付けられていると絶えずメリメリと音がして怖かったものです。この状態は三年間の通学期間中毎日続きました。
1956年頃から廃車が出るようになりましたが、今津線では1960年ごろになって姿を消しました。
_______________________________________
 

No.4:宝塚ファミリーランドの1番

 
-写真をクリックしますと1024px画像になります-
File not found: "h=004_1960^01_ck010_宝塚ファミリーランド_mc1.jpg" at page "回想の阪急電車 その1…木造車(1)"[添付]

復元された1番 1960年1月宝塚ファミリーランドにて
宝塚ファミリーランドが健在だった頃、復元された1番が「電車館」に展示されていました。腰周りに鋼板を巻いた、我が愛しの7番8番と同じスタイルに復元されていましたが、相違点も色々とありました。雨樋がつき、パンタグラフのほかにポールも装備していました。運転台には方向幕がついて、ポールを除くと19番以降のスタイルに近い物で、後期スタイルと言った感じでした。一番大きな違いは簡易半鋼製化されたのではなく、付随客車時代同様の半鋼製車でした。何と言っても一番の特徴は貫通扉下のアンチクライマーでしょう。阪急はアンチクライマーが好きと見えて多用していた方ですが、この式の取り付けは更新された1形と阪急最初の全鋼車600形だけでした。ちなみに現在は正雀工場内に大事に保管されているそうです。
_______________________________________
 

No.5:40番

 
-写真をクリックしますと1024px画像になります-
File not found: "h=005-1_1963^0203_ys072-01_西宮北口_mc45.JPG" at page "回想の阪急電車 その1…木造車(1)"[添付]

能勢電より帰って来て休車状態の45番 1963年2月3日西宮車庫にて 古鉄春秋氏写真
40形電車は1922年に複線化された西宝線(現在の今津線の西宮北口〜宝塚間)の輸送力増強用に大阪の藤永田造船所(現在の三井造船)で1923年に新造された木造電車でした。車長が10.5m車幅が2.3mで定員65人の小型電動車でした。この電車の大きな特徴は阪急初電気ブレーキ装備車だったことです。連結運転を考慮していなかったので直接制御方式でしたがノッチが電気ブレーキ付きでした。1936年ごろまで今津線で活躍していましたが、今津線にも二両連結運転が導入されるに伴い、連結運転可能な1形と目蒲電鉄から移って来た元院電の90〜95に追い立てられるようにして、当時車両不足が深刻だった能勢電鉄に41〜43・45が貸し出され40・44は箕面線専属になりましたが1946年に引退し池田車庫内で事業用に使われていたようです。
能勢電時代の40形は何度か乗りました。酷い保存状態で、砂利道の脇に敷かれて砂利と雑草に半ば埋まったレールを砂煙を巻き上げながらミッシミッシと揺れながら自転車並みの速度で走っていました。その所為か車体が土塗れで色さえ判別できないほどでした。又架線の状態が悪いのでポールが良く離線し、その度に車掌さんが窓から半身を乗り出し戻すのに苦労していました。今日の能勢電からは想像できない光景でした。
-写真をクリックしますと1024px画像になります-
File not found: "h=005-2_1970^01_ck001_能勢口_Mc61.jpg" at page "回想の阪急電車 その1…木造車(1)"[添付]

能勢口ー川西池田区間運用についていた頃の61番 1968年7月能勢口駅にて

能勢電鉄へ行った内の二両が後に鋼体化され60・61になりました。

 

付記…37形

40形にそっくりな電車に37〜39の三両がありました。40形と殆ど変わらないのですが、ベンチレーターをモニタ屋根の両端だけにしたスタイルでした。1921年に伊丹線用として梅鉢鉄工所(現在の東急車輛)で新造した電車で、伊丹線沿線の人口が増えるにつれ手狭になり1形にバトンタッチして37番は甲陽線に38番と39番は箕面線に移りました。37番は1946年まで甲陽線で活躍しましたが、7番とバトンタッチして箕面宝塚線用進駐軍専用車になり全三両が宝塚線に集結しました。占領を解かれた1949年に進駐軍専用車が廃止になると全車両が能勢電に貸与され、1953年に鋼体化されて能勢電の50〜52番になり1982年まで活躍しました。
37形は自動連結器を装備していましたが直接制御のままで連結用のエアーホースの装備も無く、結局連結運転されることは無かったようです。甲陽線時代37番によく乗りましたが天井の低いちっちゃな電車でした。台車にブリル77を履いていましたが乗り心地は7番8番ほど酷くはなかったと覚えています。

-写真をクリックしますと1024px画像になります-
File not found: "h=005-3_1970^01_ck002_川西駅前-能勢口_Mc51.jpg" at page "回想の阪急電車 その1…木造車(1)"[添付]

能勢口ー川西池田区間運用についていた頃の51番 1968年7月能勢口駅にて

能勢電鉄へ行った37形は後に鋼体化され50〜52になりました。

_______________________________________

≫阪急電車の旧型車達の目次
≫[1]…木造車(2):懐かしのP5達(1)
≫ …木造車(3):懐かしのP5達(2)
≫ …木造車(4):引退したP5達
≫ …木造車(5):55番・68番・86番・80番
≫[2]…雑形車(1):98番・99番・95番・90番・91番
≫ …雑形車…雑形車(2):92番・93番・97番
≫[3]…大正の鋼製釣掛車(1)…300形
≫ …大正の鋼製釣掛車(2)…600形
≫[4]…新京阪の顔P−6(1):104番・106番・139番・109番・143番
≫ …新京阪の顔P−6(2):142番・120番・1501番・1504番・117番
≫ …新京阪の顔P−6(3):107番・118番・1526番・134番・120番
≫ …新京阪の顔P−6(4):1515番・134番・131番・107番・1522番
≫ …新京阪の顔P−6(5):114番・125番・124番・146番・1500番
≫[5]…近代電車の旗手900形(1):900番・901番・902番・905番
≫ …近代電車の旗手900形(2):913番・912番・911番・906番・919番
≫[6]…ミスター阪急 920形(1):922番・920番・953番・951番
≫ …ミスター阪急 920形(2):922番・925番・928番・958番・959番
≫ …ミスター阪急 920形(3):930番・961番・964番
≫ …ミスター阪急 920形(4):936番・969番・973番・943番・975番

_______________________________________

添付ファイル: file0001_37mc[進駐軍専用車]_石橋_194804;$.jpg 744件 [詳細] file0003_3mc_石橋_1913;$.jpg 718件 [詳細] file0004_804mc_東和歌山_19630616;ybr.JPG 217件 [詳細] fileh=001-2_1963^0616_ys102-23_和歌山_mc804.JPG 198件 [詳細] file0004_804mc_東和歌山_19630616;ybr_0.JPG 206件 [詳細] file0002_7mc_甲陽園^苦楽園口_195311;nf.jpg 501件 [詳細]

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2011-12-01 (木) 13:14:47 (2756d)