阪急電車の旧型車達

その3…大正の鋼製釣掛車(2)…600形

 

No.34:600番

-写真をクリックすると1024px画像になります-
h=034_1957^1225_ck001a-1_蛍池_mc600etc.jpg

mc600+tc650+mc601+tc651 1957年12月25日 石橋〜蛍池間にて
今日の主人公は600形です。この電車の登場は阪急電鉄百年の歴史の中で最大のイベントの一つだったのではないでしょうか。今日は『京阪神急行電鉄五十年史』の中から600形にまつわる記述を抜粋して紹介することにしました。
「神戸線開通当時は、十三ー梅田間は神戸、宝塚両線同一線路を使用し、しかも併用軌道であったため運転上の不便が甚だしく、増加する貨客の円滑な輸送を阻害することは想像以上であった。この解決策としては併用線を専用線に変更し、神戸、宝塚両線の分離運転を決行する以外に方法が無かったので大正十一年十一月一日、先ず新淀川の新鉄橋架橋工事に着工、十三年二月六日に完成した。この直後、旧鉄橋の改修工事を開始して、高架複々線の建設準備を進めた。
大正十一年六月、梅田ー十三間神戸線専用軌道新設の特許を得て直ちに用地買収に着手、翌十一年一月、工事を開始した。
大正十五年七月、新淀川鉄橋改築、市内高架複々線完成によって、梅田ー神戸間四〇分は三五分に、宝塚ー梅田間四五分は四三分短縮することが出来、宝塚線に池田折返車、神戸線本線には三両連結を運転、市内併用線は本線と切り離して別に路面線として梅田ー北野間〇・九粁の折返運転をするなど、輸送力は各線とも増大され、貨客輸送に画期的成功をもたらした。
大正十五年七月五日、新しく完成した大阪市内高架線上で新しい三両連結車五列車を会場として祝賀会が開かれた。この会場となった車両は日本最初の大型全鋼車、六〇〇型電動客車及び八〇〇型付随客車である。これらは共に川崎造船所で建造され、六〇〇型十両、八〇〇型七両でM+T+M編成用として各車定員一二六人、全長一六米三六、幅二米六五で従来より長さが約二米、幅が三〇糎拡大された。乗降口は三扉、台車は汽車会社製ボールドウイン型を採用、制御管式の自動空気ブレーキを用い、電動車はG・E製九五馬力モーター四台をG・EのPC・12型電空カム軸式コントローラーで操作する物である。」
その後ドアエンジンを設備したり、800型が650型に改番されたりの複雑な変遷を辿りましたが、明日以降に記述させていただきます。写真の600番は木製サッシュ時代のもので乗務員扉が付いた点と、ポールと客室窓の安全柵と乗降口の手すりが撤去された事を除けばほぼ原形を保っています。
_______________________________________
 

No.35:603番

-写真をクリックすると1024px画像になります-
h=035_1969^0916_ck014_阪神国道_Mc603etc.jpg

今津線での603先頭の四両編成 1969年9月16日 阪神国道駅にて
「その35」に記載した引用文の中にありましたように、600・800形は従来車より車幅が30糎拡幅されておりまして、それが為にそれまでの建築限界では入線が困難だったため、梅田〜十三間の新線建設工事と並行して神戸本線全線に渡り軌道敷きの拡幅工事が施され、神戸本線に在籍していた従来車の乗降口にステップが取り付けられました。レールは梅田〜神崎川間が米国製の30kgレールを使用していましたが、これも600形入線に際し同じく米国製の37kgの新しいレールに交換し、梅田〜上筒井間全線が37kg軌条に統一され、撤去された古いレールは鉄柱に利用されました。
このように600形の入線はいろいろな改革をもたらし、阪急電鉄を近代的なインターバーンに生まれ変わらせたのでした。車体も従来車は木造車両の影響を色濃く残し、台枠の歪を押さえるためにトラス棒を両側面にぶら下げていましたが、600形では魚腹台枠が採用されています。雨樋を廃し妻面と乗降口の上に弧形の水切りを配した鋼製の深い丸屋根やリベットの並ぶボデイーなどなど、重そうで無骨でお世辞にも好いスタイルとは言えませんが、当時は頼れる頼もしい電車として人々の目に映ったのでしょう。
600形に先駆けて、大正十四年(1925年)十一月に全鋼製試作車両510番を川崎造船所で竣工し、神戸線に入線当時の500形(300形)と連結して運行していました。500形の性能をを大筋で継受しておりまして、腰板や妻板の幅は500形と同じですが、600形と同じ構造の屋根と、妻面を含めた全ての窓が上段固定下段上昇式を採用して居るのが特徴でした。600形に比べると可也角張った感じの電車だったわけで、500形と連結運転してもさしたる違和感が無かったのではないでしょうか。翌大正十五年十月中頃に十三駅構内で追突事故を起こして大きく破損しましたが木造車のようにばらばらになることが無く怪我人三名の被害で済み、この事故の結果が全鋼車に対して信頼を寄せる原因になったとも言われています。衝突のショックで開いて居た窓のガラスが落ち座席の女性客の日本髪を直撃して頭に大怪我させてしまったため上昇式窓の採用は取り止めになったと聞いた事がありますが真意のほどは分かりません。
600形及び800形は登場時は貫通幌無しの両運転車でした。電動車600形+制御付随車800形+電動車600形の編成で運用され、大阪側に編成の中で一番若い番号が就くのがこの頃からの慣例で、例えばcMc600+cTc800+cMc601で運用されたと思います。車内は木造車同様落ち着いた雰囲気に仕上げる為、従来通りのロングシートですが背もたれの高いゆったりしたシートと、壁面は木目柄に仕上げ、電灯はシャンデリア(鈴蘭燈)を配し、至って高級感のするものでした。昭和三年(1928年)中頃には全車わが国初のドアエンジン装備車になり、この時に608+806+609が扉間の座席を転換クロスシートに変更しクロスシートの試験車両に改造されていますが、これも我国初でした。昭和五年(1930年)四月にはcTc車804番・805番・807番が新造の900形と同じ電装の上扉間の座席を転換クロスシートに変更し690番・691番・692番に改番しcMc690+cMc691+cMc692の編成で、900形と共に新設の大阪〜神戸(上筒井)間特急の専用車になりました。
ちなみに大阪〜神戸間特急は途中西宮北口に停車するだけで当初30分で走破しましたが、翌年の十月一日からは所要時間を二十八分に短縮、昭和九年(1934年)七月一日には二十五分に短縮し、国鉄阪神電車がなし得なかった高速運転を実現したのでした。当時の阪急のキャッチフレーズが「大阪〜神戸 一またぎ 二十五分」でした。
写真の603番は最晩年の姿で、この写真を撮った時は1500V車に改造されており、600形全車両が西宮車庫に集結しMc+Tcの二両固定編成を基本として、四連で今津線伊丹線に二連で甲陽線に活躍していました。尤も甲陽線にはごく偶にしか顔を見せませんでしたが。参考までに神戸線の昇圧は昭和四十二年(1967年)十月八日、宝塚線は昭和四十四年(1969年)八月二十四日です。
長くなりますのでその後の経緯はまた明日書かせていただきます。
_______________________________________
 

No.36:今津線の602番

-写真をクリックすると1024px画像になります-
h=036_1969^0916_ck008_仁川_Mc602etc.jpg

今津線での602先頭の四両編成 1969年9月16日 仁川駅北方にて
昭和七年(1932年)には800形をMc化し、Mc車690形三両は元の車番(804・805・807)に戻されました。理由はもう一つ分からないのですが、900形がMc+Mcで使用されているにも関ず、900形よりも重く出力が若干低い600形がTc車を連結していると加速性能が劣り、ダイヤを組むのに支障があると予測したからではないでしょうか。当時特急も普通も概ね十五分間隔で運転されていたようで、西宮北口駅が特急と普通の連絡駅で、先発の普通電車を追いかける後発の特急電車が西宮北口で接続し追い越し、先発の普通電車を終着駅まで追いかけるダイヤでした。普通電車は西宮北口または終着駅まで逃げ切る必要があり、同じ線路を走る車両は性能が似ているほうが良いと判断したのかと推測します。
昭和九年(1934年)六月に920形電車が登場し、七月一日から大阪ー神戸間二十五分特急の運転を開始するのに当たり、804番・805番・807番を除く800形車のモーターが取り外され再度Tc車に改造されました。これも想像の域を出ないのですが、当時の神戸側のターミナル駅上筒井駅の構内が手狭な為に角度のきつい分岐機が使用されており、車長が長い900形の三両連結運転は無理で、600系車両の三両連結が精一杯だったので、900系・920系は二両連結運転として、車両の数に余裕が出たので十二分間隔運転を実施、特急専用車両の限定をやめてしまったものと思います。
戦争中の昭和十九年(1944年)800形の改番が行われました。Tc800形の800番〜803番がTc650番〜653番にTc806番がTc654番に、Mc804番・805番・807番がMc655番〜657番になりました。650番と654番が昭和二十年(1945年)に中津辺りで焼夷弾の直撃を受けて焼失しました。戦後進駐軍の要求でクロスシート車655番〜657番が神戸線用連合軍専用車に指定され、占領を解かれるまで使用されました。昭和二十三年(1948年)五月、罹災車両や事故車両の復旧の名義で920形の第六次車両943形を新造するに当たり605番〜609番のモーターをはずしてこれに譲り、Tc605形が生まれました。罹災した650番と654番も同時にTc車として復旧しました。昭和二十六年(1951年)には乗客の増加から四両連結運転が避けられなくなり654番をMc化し、Mc車Tc車を9両ずつとして、Mc+Tcのユニット編成をつくり四両連結にも対応できるようにしました。この頃既に老巧化が目立っておりまして故障による運転休止事故がちょくちょくあり、昭和28年(1963年)ナニワ工機で全車の車体更新工事を施し、再度改番され、Mc車を600番代にTc車を650番代に統一しました。600番〜604番はそのまま、(旧)655番〜657番を(新)605番〜607番に改番、(旧)605番〜609番を(新)650番〜654番に、(旧)650番〜653番を(新)655番〜657番に改番しました。更新工事に際し全車両を片運転台に改造の上、(新)600形と(新)650形の幌連結による二両固定編成を行い、乗務員扉を新設しました。
昭和三十二年(1957年)には全車Mc化の上宝塚線に集結、その後の十年間は宝塚線専用車として四両連結や六両連結で活躍しました。
神戸線の1500V昇圧が完了した昭和四十二年(1967年)十月にナニワ工機で更新改造工事を施して西宮車庫に移動しました。更新改造工事の内容は、600番代を1500V用Mc車に、650番代をTc車にとの方針で、600番〜607番の電装品を新製の1500V用のものに取替え、650番〜657番の電装品をはずし、広幅貫通路幌連結のリベットレスな車体に改造し、Mc+Tcの二両永久連結で登場させました。600番以外の写真は全てこの更新工事を受けた後の姿です。その後は四連で今津線や伊丹線で使用され、偶に二連で甲陽線にも姿を見せました。
しかしよる年波には勝てず、昭和45年(1970年)3月の神戸線の列車無線の使用開始に際しては工事対象からはずされ、翌年には運転設備を撤去して、主に610系の中間車として今津線と伊丹線で使用されましたが、昭和50年(1975年)廃車になりました。写真の602番はその後川崎重工に引き取られ、現在の川崎車両兵庫工場に保存されているそうです。
_______________________________________
 

No.37:654番

-写真をクリックすると1024px画像になります-
h=037_1969^0916_ck007_仁川_tc654etc.jpg

西宮北口ー逆瀬川間の折り返し列車の654 1969年9月16日 仁川駅北方にて
600系は無骨な外観の電車ですが、600系同士の連結運転中の姿は素晴らしく、特に宝塚線時代の四連や六連はこの電車の面目躍如たるものでした。リベットの並んだボデー、弧形の水切りが付いた屋根、お椀方ベンチレーター、木造車の伝統を受け継いだ窓配置等々数え上げたらきりが無いのですが、特に魅了してくれたのが走行音でした。ボールドウイン78−35AA台車そっくりの汽車会社K−15台車にGeneral Electric製の71kwモーター、釣り掛け電車の走行音を楽しむには最高のお膳立てだったと、今でも思っています。600形が活躍していた頃の宝塚線は37kgの短尺レールが主体でして、乗っていますと、車輪がレールの継ぎ目を打つ響きが「タタンタタン」と絶え間なく「ウォーン」とモーターが通奏低音を奏でて、それに調子を合わせるかのように上下左右に揺れるその乗り心地は最高でした。揺れは決して激しいものではなく、座席に座っていますといつの間にかうとうとして乗り越したことが何度かありました。
昇圧後の今津線では、連結幌受けの枠が運転台妻面に付き、窓枠がアルミサッシになり並んでいたリベートの数も減ってスッキリした外観になり、新型モーターと50kgの中尺レールのお陰で走行中の音も揺れも静かになり、乗り心地はぐっと改善されたのですが、あのごつごつした車体と乗り心地に慣れ親しんだ経験が邪魔してかもう一つ馴染めなかったものです。
晩年、固定編成を解かれてモーターもはずされて900形と連結したり、運転台を撤去されて610形の中間車になっている姿を見るようになって、この電車ももう直ぐ廃車になると分かって寂しくなったのでしたが、大正生まれの電車を、昇圧時に電装品を入れ替え車体を更新してまで使い、それでいて古い電車と言う意識を乗客に持たせることが無かった、阪急マンの物を大事にする精神を体現した電車だったと思っております。これは後出の900形920形にも当てはまると思いますが。
今津線の門戸厄神から逆瀬川までの間は、神戸女学院、関西学院、報徳高校、小林聖心女学院等々学校が集中していまして、関西随一の通学路線です。退学時の混雑緩和に西宮北口ー逆瀬川間に臨時ダイヤが組まれることがありました。写真はそんな臨時列車の一つだと思います。ちなみに乗降口横のステッカーは千里万博の宣伝ステッカーで、1969年70年当時在阪五大私鉄は殆どの電車にこのステッカーを貼り付けていました。
_______________________________________
 

No.38:淀川橋梁を渡る652番

-写真をクリックすると1024px画像になります-
h=038_1963^0819_ys104-14_十三_tc652etc.JPG

652先頭の六連の池田行き普通電車 1963年8月19日 十三駅南方の新淀川橋梁にて 古鉄春秋写真
宝塚線時代には昭和三十五年(1960年)頃から600形の六両編成が見られました。六両編成が二編成と四両編成一編成あり、四両編成は箕面線で使用されていたようで、梅田には六連が顔を出していたようです。六連は実に豪華に見えていました。国鉄も含めて大阪では、京都線のP6の六連と宝塚線の600形の六連が一番見ごたえが有りました。鉄橋を渡る時の大音響とこの重厚な姿が醍醐味だったと覚えています。
_______________________________________

≫阪急電車の旧型車達の目次
≫[1]…木造車(1):7番・21番・32番・復元1番・40番,
≫ …木造車(2):懐かしのP5達(1)
≫ …木造車(3):懐かしのP5達(2)
≫ …木造車(4):引退したP5達
≫ …木造車(5):55番・68番・86番・80番
≫[2]…雑形車(1):98番・99番・95番・90番・91番
≫ …雑形車…雑形車(2):92番・93番・97番
≫[3]…大正の鋼製釣掛車(1)…300形
≫[4]…新京阪の顔P−6(1):104番・106番・139番・109番・143番
≫ …新京阪の顔P−6(2):142番・120番・1501番・1504番・117番
≫ …新京阪の顔P−6(3):107番・118番・1526番・134番・120番
≫ …新京阪の顔P−6(4):1515番・134番・131番・107番・1522番
≫ …新京阪の顔P−6(5):114番・125番・124番・146番・1500番
≫[5]…近代電車の旗手900形(1):900番・901番・902番・905番
≫ …近代電車の旗手900形(2):913番・912番・911番・906番・919番
≫[6]…ミスター阪急 920形(1):922番・920番・953番・951番
≫ …ミスター阪急 920形(2):922番・925番・928番・958番・959番
≫ …ミスター阪急 920形(3):930番・961番・964番
≫ …ミスター阪急 920形(4):936番・969番・973番・943番・975番

_______________________________________

添付ファイル: fileh=038_1963^0819_ys104-14_十三_tc652etc.JPG 1134件 [詳細] fileh=035_1969^0916_ck014_阪神国道_Mc603etc.jpg 1176件 [詳細] fileh=037_1969^0916_ck007_仁川_tc654etc.jpg 1142件 [詳細] fileh=036_1969^0916_ck008_仁川_Mc602etc.jpg 1135件 [詳細] fileh=034_1957^1225_ck001a-1_蛍池_mc600etc.jpg 1908件 [詳細]

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2011-12-01 (木) 04:14:39 (2733d)