阪急電車の旧型車達

その4…新京阪の顔P−6(1)

 

No.39:オリジナルスタイルの104番

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新製当時のデイ104番 正雀車庫にて 京阪神急行電鉄五十年史より
デイ100形電車は余りにも有名で、紹介する書物がたくさん出ていますので、私ごときが余り知ったかぶりをしないほうが好いと思っています。
新京阪鉄道が昭和3年(1928年)1月16日に淡路ー高槻町間を開業するのに備えて前年の十二月、新築間もない正雀車庫に101番〜120番が入庫しました。Pssennger car 6形と命名され、略してP6と呼ばれ、P6形100番〜120番が正式な呼び名だったそうです。昭和4年(1929年)二月に29両増備しておりまして、先に製造された方をP6A、増備車の方をP6Bと区別して呼びました。デイ100形は京阪電鉄時代の呼称で、当時の京阪では本専用大型高速車両には「イ」を、本専用小型車両には「ロ」を、ローカル線用小型車両には「ハ」をつけて区別していたようで、「デイ100形」は本線用大型高速電車100形という意味だったと聞いた事が有ります。
大阪〜京都〜名古屋間の運転を目的として造られただけのことは有って、当時の技術の粋を集めた、当時としてはとてつもない電車だったそうです。デイ101番〜110番が日本車両で、デイ111番〜120番が汽車会社で新造されました。魚腹台枠を使用した18.29mX2.79mのオールスチール製の車体のボギー車で、重量が52tもあり我国で最も重い電車だったようです。それがため「装甲車」とのニックネームがつきました。新製当時は両端に運転室が付きドアエンジン付きの二扉車で、運転室に乗務員扉と貫通扉が付き、客室は両端と扉付近がロングシートで中央部がボックス型の固定式クロスシート、車内照明にはグローブ灯を天井中央に一列に配し、床はリノリューム張りで、窓は防寒と防音を兼ねて二重式窓となりました。写真では二段窓に見えていますが、上段のガラスは飾りで、二重ガラスの上昇式一段窓が設備されていました。電装品は当時の最高級品で、英国のイングリッシュ・エレクトリック社と提携していた東洋電機から最新の物を選び、200Hp(149kw)のモーターを4台搭載し、ブレーキはウエスチングハウス製のAMU方式を採用、米国式の外観にイギリスのノウハウが詰まった電車だったわけです。この大きな車両を支える台車も当然の事に大型になり汽車会社製のホイルベースが2.44mもあるK−6B台車を履きました。
昭和三年(1928年)七月に、川崎車両で竣工した制御客車フイ500形501番〜510番が入線しました。フイ500形が入線するまでは単行か電動車重連で運用されていまして、高加速を狙っていきなりノッチをフルに入れることからフラッシュオーバーによる主電動機燃焼事故が頻発していたようでした。同年九月に高槻町〜西院間が開通し、経営の行き詰まりから昭和五年(1930年)九月十五日親会社の京阪電鉄に吸収され、京阪電鉄新京阪線となり、天神橋ー西院間を35分足らずで走破するノンストップ特急(超特急)の運転を朝夕に限定して開始しました。100形+500形若しくは100形単行で運転されたようですがフラッシュオーバーが相変わらず頻発してモーター損傷事故の発生が絶えず、運転技術の未熟さによる物とも一概に言えず、為に親会社の京阪電鉄の技術者が解決方法を探りにアメリカへ渡り、アメリカの都市間高速電鉄の視察までしたとの事でした。
写真の電車には、P6独特のバッファー付き連結幌とグロベンが見当たりませんが、新製当時の姿で、大型のお椀形ベンチレーターを五個、屋根の中央に一列に並べていました。これも独特ですが屋根上の高圧引き通し線は新製当時からありました。
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新製当時のデイ104番車内 京阪神急行電鉄五十年史より
 
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新幹線建設工事のため仮設ホームとなった大山崎駅上りホームを通過するデイ104番 1963年2月28日
古鉄春秋氏写真
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No.40:大山崎の106番

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京都(四条大宮)行き急行のデイ106番 1959年11月1日 大山崎付近にて古鉄春秋氏写真
開通当時の京都線はターミナルが天神橋と西院で、市の中心部から離れた場所にあったため輸送量が伸びず、天神橋ー西院間を単行運転が主体の状態でした。放漫投資による経営の行き詰まりで、昭和五年(1930年)九月十五日に親会社の京阪電鉄に吸収され新京阪線となり、それを機会に朝夕に天神橋ー西院間にノンストップ特急の運転を開始し、京阪間を三十四分三十秒で走破しました。現在新快速の京都ー大阪間の所要時間が二十九分ですから、昭和の初めに52t余の電車が100km/h以上の速度で走行する姿を思い浮かべると胸がわくわくします。当時はどう受け止められたのでしょうね.
当時の西院駅は地上に仮設された物でしたが、四条烏丸方面に向けて地下鉄線路を建設中で、昭和六年(1931年)三月末四条大宮までの地下鉄線が開通し、天神橋ー京都(四条大宮)間の営業運転を開始、ノンストップ特急も所要時分の変更無しに四条大宮発着に変わりました。この地下区間は関西で最初の地下鉄で、地下鉄としてはパンタグラフ付きの大型電車が通行できる我国最初の物でした。
四条大宮延長で天神橋ー西院間に急行(淡路・高槻町・桂に停車)運転が開始され、そして宣伝の意味をこめて東海道線と交錯並行する大山崎付近で急行電車が「特急つばめ」と競走するダイヤを組み、「新京阪は急行でも特急つばめより速い」と追い抜いて見せたのでした。今日の写真は、その伝説の場所を走行中の四条大宮行きの急行電車です。この写真を写した当時も、省線電車を阪急電車が軽々と追い抜いて行くのが常でした。
ノンストップ特急に、特急つばめを追い抜く急行と役者は揃ったのですが、輸送量ははかばかしくなく、優等列車以外は単行運転が常だったようです。打開策の一つとして、十三駅で阪急と連絡して神戸線宝塚線沿線と京都を結ぶ急行電車を昭和九年(1934年)九月一日から運転を始めました。この急行電車は十三ー淡路間は各駅に停車し、淡路で天神橋ー京都間の急行と連結、開放するダイヤでして、連結開放時間の短縮の為にバッファーの付いたスプリング式のアメリカンスタイルの連結幌が設備されました。幌の上部と下部に板バネを装備し、反発力で幌同士を密着させて貫通路通行者の安全を確保する構造になっていました。今日の写真の幌がまさにそれで、昭和二十七年(1952年)の大改修で無くなるまで100形の象徴になっていました。もう一つの象徴であるグローブベンチレーターが装備された姿を見るのは昭和二十三年(1943年)の更新まで待たなければなりません。
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No.41:139番

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デイ139番 1958年12月20日 正雀車庫にて 古鉄春秋氏写真
デイ139番は新造された時はフイ506番でした。昭和三年(1928年)七月に神戸の川崎造船所で竣工した両端運転台・パンタグラフ付きの全鋼製制御付随車フイ501番〜510番の一台です。新京阪鉄道では、当初は二両連結、近い将来三両連結の列車編成が必要になるだろうと計算していたようで、高槻ー京都間の開通に備えて、昭和三年九月に半鋼製ロングシートの両運形電動車十三両を増強しデイ121番〜133番として、普通電車を二両連結で運行することを予定して片運半鋼製制御客車十六両(511〜526番)を増強しました。淡路ー高槻間開通当初は単行で充分な乗車効率でして、昭和三年九月に高槻ー西院仮駅間が開通し、桂で分岐して名勝地嵐山へ向かう嵐山線を、これも新京阪本線と同じ規格で建設し昭和三年十一月九日に開業しましたが、その後も乗客の伸びはもう一つで単行運転で賄える範囲内で終始していたようです。為に付随車は車庫で昼寝している状態で稼働率が極端に低かったらしく、親会社である京阪電鉄と相談の上、合併後に乗客獲得の手段として天神橋ー西院間にオール電動車によるノンストップ特急(超特急)を新設し、急行も充実する予定で、全鋼製クロスシート車を優等列車専用にする目的で昭和四年(1929年)二月電動車に改装し、追い番でデイ134番〜143番に改番されました。
初期投資が余りにも莫大だった為、新京阪鉄道は独立を維持できず昭和五年(1930年)九月十五日に京阪電鉄に吸収合併され、工事中だった京都市内の地下線路の西院ー四条大宮間を翌年六月三十一日に開通させましたが、この負担も上乗せされ京阪電鉄が膨大な債務を背負うことになりました。
現在でこそ余り気にしなくなりましたが、元来、京阪間は大阪の表鬼門、京都の裏鬼門と言われ、大阪や京都に生活の拠りどころを持つ人達は移り住むのを余り好まなかった地域で、更に淀川の度重なる氾濫によって地盤が軟弱で泥田に近い地域が広く、それ故沿線人口の伸びが著しく低かったようでした。同じ事が京阪電鉄本線にも言え、京阪電鉄自体の営業状態も余り良いものではありませんでした。営業継続の至上命令で京阪間の直通客をねらわざるを得ず、その為に可也の無理をしました。先ず名古屋延長の方針を放棄し、単行か二両編成で充分間に合う為に付随客車が使用されることは殆ど無かったようです。給料の支払いがやっとの経営状態では、電動車の保全もままならず、総数73両になるP6形電車の代表格の101番〜120番・134番〜143番は、不具合状態にもかかわらず使用される日常になってしまいました。
電動車重連による超特急(天神橋ー四条大宮間ノンストップで34分30秒で走破)、天神橋・十三ー四条大宮間の急行と省線特急列車とのスピード競争の演出等々、全線に渡って50kgレールを敷設し10パーミル以下の勾配におさえた特甲線路を走行するとは言え、52トンの巨体で力行に力行を重ねる走行や長距離制動が常態化し、オーバーフラッシュによりモーターが火を噴いたり、ベアリングが磨耗したり、ブレーキ弁が磨り減ったり、はては台車のスプリングにひびが入り、モーターが損傷し、ベアリングボックスが歪んでしまったりしましたが、それでも使用したようでした。
戦時統制経済下の昭和十八年(1943年)、軍により民鉄の強制合併策が施行され、経営状態が非常に悪化していた事も原因して、京阪電鉄は阪急電鉄に強制的に吸収させられてしまい、京阪神急行電鉄の新京阪線・京阪線及びその支線になりました。そのお陰で、旧阪急電鉄からの部品などの支給を受ける事が出来てやっと修復にこぎつけたのでした。しかしP6初めP5にも言えることですが、阪急と新京阪では部品の各々からその配置に至るまで仕様が全く異なっており、阪急ではGEの技術を引き継ぐ芝浦製作所(東芝)製の電装品を使用しているに対し、新京阪ではEE(English Electric)の技術を継承した東洋電機製の機器が主流になっていました。この伝統は現在でも継承されているはずです。
写真は1952年から始まった戦後の大改修更新工事を受ける前の139番ですが、この姿もこの写真を撮って間もなく見られなくなり、次回に掲載する写真の姿になって再登場しました。この続きは次回に譲ります。
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No.42:更新車139番

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デイ139番 1970年8月 柴島駅にて
京阪神急行電鉄が発足して半年、戦時統制経済化で部品の用達もままならぬ中、曲がりなりにも100形の修復を成し遂げて、新京阪線強化策の選択技の一つとして実行されたのが急行電車の梅田乗り入れでした。戦争たけなわの昭和十九年(1944年)四月八日梅田ー四条大宮間直通急行の運転を開始しました。途中停車駅を十三・淡路・高槻町・桂・西院に限定し、電動車の重連で運転しました。複電圧装置を無装備のままで1500V車を600Vの宝塚線の十三ー梅田間の線路に乗り入れるのですから、可也な無茶をやったと思います。梅田駅の、地上駅から高架線路に上る勾配や、十三駅と新淀川橋梁の間の勾配区間を上りきれるかどうか、ブレーキがまともに動作するかどうか、大型重量車両に対処できていない宝塚線新淀川橋梁に影響が出ないかどうか、とにかくひやひや物だったと想像します。当然運転速度は非常に遅く、20km/h程度ののろのろ運転でした。そんな状態でしたが、大宮止まりとは言え京都の中心の四条通へ梅田から直接行けることが魅力で、乗車効率が良かったようです。しかし敗戦色が濃くなった昭和二十年(1940年)六月には、保守資材の入手が困難になったことや、空襲が頻発して運転の安全が確保できなくなったなどの理由で、優等列車の運行が中止され、新京阪線急行の梅田乗り入れも中断してしまいました。クロスシートや二重窓も戦時中に廃止、ロングシートと一般の窓ガラスに取り替えられてしまいました。
戦後最初に復活した優等列車が十三ー京都間の急行でした。電動車100形の重連で運転されました。これは合併後の修復で電動車の殆どが使用に充分に耐えられる状態にあったことと、空襲による被害が軽微で、二両だけが罹災するに止まった事などが幸いしたのだと思います。途中停車駅は淡路・茨木町・高槻町・桂・西院でした。この事は京阪神急行電鉄の社員を勇気付けました。
余談になりますが、阪急の創業者であり当時の社長であった小林一三氏はとても堅実な考え方をする方で、京阪電鉄の創業者である太田光煕氏とよく対比されたのですが、前身の箕面有馬電軌を開業する前、この電車をどんな姿勢で経営すれば好いか考えながら線路予定地を歩いていると大阪から自宅のある池田まで帰りついてしまうことが何度かあったと逸翁自伝に書かれていたのを覚えていますが、とにかく念には念を入れて熟慮し、一旦決断すると全力を掛けて取り掛かり、そして物を非常に大事にする人物だったそうです。太田光煕氏は積極的経営で有名な企業家で、政界や官界とも繋がりが深く、事業を広げることに勢力を費やし、後ろを振り返ることが一切無かったと聞いたことがありましたが、小林一三翁の物を大事にする精神は阪急マンの体に染み付いており、疲弊し切っていたP6が京阪神急行電鉄時代に蘇り、戦後最初の急行運転に従事出来た事は特筆すべきことではないでしょうか。
本日の写真は昭和二十七年(1952年)から始まった戦後の大改修後の姿で、特徴だった緩衝器付き幌枠がはずされ、旧阪急線標準の着脱式幌取り付け用の金枠になったことで表情がすっかり変わってしまいました。運転手の視野が狭かったのが理由だそうですが、とても凛々しく男前に見えたP6が、なにか初老の老人然として見え、もう一つわさびが利かなくなってしまったのが残念です。更新後も新京阪の伝統が生かされておりまして、窓枠が車体と同色に塗られていたり(阪急はニス塗りで生地の色を生かしていた)側面の幕板に看板様のスペースを設けたり、正面の看板挿しがオス型だったり、見た目でも気づく点がいろいろ在りました。
看板が無いので、恐らく回送車だと思いますが、1970年頃では淡路ー天神橋間で四両編成の電車は千里山線用で、京都線の普通電車は天神橋発着に限られ三両編成が主で、二両編成車もありました。
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No.43:嵐山線での109番

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二連で嵐山線運用に当たるデイ109番 1960年1月 桂駅にて
京阪神急行電鉄(以後阪急とします)がP6に取り組んだのは台車の修復改造工事でした。戦前の酷使で、また戦時中は部品不足で満足な修復が出来なかったため、ボルスタースプリングがへたり、軸受けが歪み、ブレーキの利きにむらが出るなど惨憺たる状態でした。復活急行には台車の状態が比較的良い車両を使ったようでしたが、ごつごつした振動があり乗り心地が可也悪かったようです。メーカー汽車会社の協力を得て、ボルスタースプリングを改良した物に、軸受けを新品に取り替えたり、ボルスターアンカーを新たに加えたり、特に傷みの酷かったデイ106番・108番・111番〜114番等は住友金属の新型台車KS33Eに履き替えたりして乗り心地を大幅に改善し、創業当初の高速運転が可能になり、そして昭和二十三年(1928年)八月には梅田〜京都間の急行運転を、梅田ー京都間の所要時間は五十三分で、梅田ー十三間は宝塚線に乗り入れで復活したのでした。1500V車のままで600V区間を走行する為、梅田ー十三間は20km/h程度のゆっくりした速度で運行され、十三ー梅田間の京都線分離工事が竣工するまで続きました。
写真は1960年の正月に桂駅で停車中の、嵐山線運用についている109番ですが、嵐山線用は16番他のP5が五両と、阪急唯一の流電201番+251番が主でしたが、P6も入線する機会が多く、ウイークデイは単行で運転され、休日は写真のように二両連結になりました。一時間当たり上下四本の運行ダイヤでしたが、交換駅の関係で等間隔運転ではなく少し変則だったように覚えています。
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No.44:嵐山線での143番

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単行運転の嵐山線デイ143番 1953年8月17日 桂駅にて
昭和三年(1928年)七月に神戸の川崎造船所で竣工したフイ500形(501〜510番)は両運転台パンタグラフ付きのセミクロスシートの全鋼製制御客車でした。当初の目論見では、天神橋ー西院間が全通したなら乗車効率が上がり、当然二両連結運転になると予測しておりまして、制御客車を新造しました。この思惑が見事にはずれ、電動車の単行運転で充分で、制御客車の出る幕が無く、車庫で眠っているだけでした。乗客が増えている千里山線は路盤が貧弱でP6が入線するのは到底無理で、休日などの多客時に引っ張り出されて、二両連結運転の相手役を務めるのが関の山だったようです。
新京阪鉄道の太田社長は名古屋延長を目指しておりまして、西向日町で分岐して山科・石山・草津・八日市・菰野・津島等を経由して熱田に至る線路を想定していたようです。京都や大津や四日市・桑名と言った基幹都市をはずした線路の想定に本気なのかどうかを疑うのですが、とにかく名古屋延長を念頭に車両を増備していたようです。車両が余っている状況にも関ず、同年十月に、これも川崎造船所で貴賓車用の半鋼製付随客車500番を新造、あわせて制御電動客車を13両新造しました。追い番で121〜133番と付番されましたが、100〜120番と比べると可也のグレードダウンで、両端に運転室がある構造ですが、車内が木造の半鋼製車両で座席はロングシートになり、一枚ガラスの二段上昇窓になりました。また121〜133番の制御付随客車版511〜526番を入線させました。二次P6については明日に譲るとして、近い将来大阪ー京都間に乗客招致の手段として電動車重連のノンストップ特急を運転する計画を立て、昭和四年(1929年)二月、551〜560番を電動車に改造し、恐らく必要性が無かったと思うのですが、ロングシート片運転台の半鋼製制御付随客車を13両新造しました。電動車に改造された551〜510番は改番され134〜143番になりました。そしてノンストップ特急つまり超特急、淡路で連結開放する十三・天神橋ー京都間の急行にと酷使に酷使が繰り返される過酷な運命が待っていたのでした~。 P5も含めて127両もの電車を用意した過剰投資が足を引っ張り、新京阪鉄道は持ちこたえられなくなり、大規模なリストラを行った末に親会社の京阪電鉄に昭和五年九月十五日に京阪電鉄に吸収され、京阪電鉄の新京阪線となりましたが、京阪電鉄の経営状態も余りよくなかったため、ロクに修理もされず酷使され続け、故障車が続出の中綱渡り的運用が続きました。何とか一息つける状態になったのは阪急になってからでした。
戦後の輸送復興のトップを切って、昭和二十年(1945年)十月十日、P6全鋼製制御電動客車の重連で十三ー四条大宮間の急行運転を再開しました。そして昭和二十三年(1948年)八月二十一日に梅田乗り入れの再開を果たしました。この運転再開に際して101〜144番に、600V宝塚線を走行中の安定運転の為に、MGとコンプレッサーを600V区間でも本来の性能を維持できる用に改造し、モーターのトルクの低下を抑える為に電圧転換器を装備しました。しかしモーターが1500V用をそのままに使用した所為もあり、又宝塚線の大型車対応の規格向上工事が施工中で、為に十三ー梅田間は低速運転のままでしたが、運転再開時は梅田ー四条大宮間の所要時間は53分で、昭和二十五年(1950年)十月一日のダイヤ大改正で48分に短縮を果たしました。この大改正で復活したのが天神橋ー四条大宮間の特急でした。朝夕のラッシュ時のみの運転でしたが、ノンストップ運転で所要時間は36分でした。特急に使用されたのが111〜116番の6両で、相手役の1511〜1516と共に、腰部はレッドマルーン、腰板帯部には白(銀?)帯を、窓部及び幕板部はオレンジ色に塗り分けられ、全車セミクロスシートに改装の上使用されました。この特急は昭和31年(1956年)四月十六日からは梅田ー四条大宮間に変更され、ノンストップで運転時分に38分所要、終日30分間隔で運転されました。
写真は桂駅で写した嵐山線の143番ですが、当時の嵐山線では、平日はP6の単行運転もよく見られたものでした。窓の大きいP6の窓景色は素晴らしくて、乗っていても飽きなかったことを覚えています。写真では両運車ですが、昭和二十八年からの大改修で片運車に改造され、撤去された運転台の跡は座席が延長され、両運車だった痕跡は全く無くなってしまいました。
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≫阪急電車の旧型車達の目次
≫[1]…木造車(1):7番・21番・32番・復元1番・40番,
≫ …木造車(2):懐かしのP5達(1)
≫ …木造車(3):懐かしのP5達(2)
≫ …木造車(4):引退したP5達
≫ …木造車(5):55番・68番・86番・80番
≫[2]…雑形車(1):98番・99番・95番・90番・91番
≫ …雑形車…雑形車(2):92番・93番・97番
≫[3]…大正の鋼製釣掛車(1)…300形
≫ …大正の鋼製釣掛車(2)…600形
≫[4]…新京阪の顔P−6(2):142番・120番・1501番・1504番・117番
≫ …新京阪の顔P−6(3):107番・118番・1526番・134番・120番
≫ …新京阪の顔P−6(4):1515番・134番・131番・107番・1522番
≫ …新京阪の顔P−6(5):114番・125番・124番・146番・1500番
≫[5]…近代電車の旗手900形(1):900番・901番・902番・905番
≫ …近代電車の旗手900形(2):913番・912番・911番・906番・919番
≫[6]…ミスター阪急 920形(1):922番・920番・953番・951番
≫ …ミスター阪急 920形(2):922番・925番・928番・958番・959番
≫ …ミスター阪急 920形(3):930番・961番・964番
≫ …ミスター阪急 920形(4):936番・969番・973番・943番・975番

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添付ファイル: fileh=039-1_1927^12_x001_正雀車庫_mc104.JPG 1741件 [詳細] fileh=042_1970^08_ck014_柴島_mc139etc.JPG 1412件 [詳細] fileh=039-3_1963^0228_ys072-21_大山崎_mc104etc.JPG 1713件 [詳細] fileh=039-2_1927^12_x002_正雀車庫_mc104.JPG 1437件 [詳細] fileh=043_1960^01_ck002_桂_mc109etc.jpg 1334件 [詳細] fileh=040_1959^1101_ys030-08_大山崎_mc106etc.JPG 1712件 [詳細] fileh=044_1953^0817_ck002_桂_mc143.jpg 1449件 [詳細] fileh=041_1958^1220_ys018-21_正雀_mc139etc.JPG 1509件 [詳細]

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Last-modified: 2011-12-01 (木) 13:14:59 (2757d)