神鉄電車のたどった道

阪急グループに加わる以前の神戸電鉄時代

1948年頃の社会情勢は混沌としており、道路が全く以って未整備の状態で、物資の輸送はほぼ100パーセント鉄道に依存しておりました。三田線や粟生線の沿線に農村地域が広がっており都心に比較的近いことから、神戸で海産物を仕入れて農村で売り歩き農村で農産物を仕入れて神戸で売り歩く行商人や、農村で米を仕入れて神戸で売る闇商人、更に当時結構人気が有った「どぶろく」(マッコリに似た濁り酒)用の屑米を仕入れて来て密造人に売り渡す密売人などが横行しており、これらの商売に携わる人たちは中年の逞しい女性が多かったのですが、彼女達の商売上の縄張りが神鉄沿線に集中していたようでした。中でも行商人ではなく、闇米とか運搬請負を専業にするおばさん連中を「担ぎ屋のおばはん」と呼んでいまして、朝鮮半島出身者が多く生活力がとても旺盛で、自分の体重をはるかに凌ぐ荷物を担いで徒党を組み、乗った電車の中で我が物顔に振舞う事が多く、一般の乗客との間で揉め事を起こすのが日常茶飯事で可也顰蹙を買っていました。また集団で無賃乗車を強行する「担ぎ屋のおばはん」も多かったようです。特に車内に持ち込まれた乾物や鮮魚類は臭いが強烈で、零れ落ちた汁などが車内を汚し、辟易した乗客から会社に寄せられる苦情が絶えることがありませんでした。対策にほとほと困った電鉄が 解決策として考え出したのが、担ぎ屋さんの荷物を電車から締め出す方策として国鉄より譲り受けた有害貨車をデ1系やデニ11系の電車に増結し、電車に乗って来る「担ぎ屋のおばはん」の荷物を貨車に載せて貰うようにしたのでした。これが功を奏し、その結果を踏まえて湊川〜有馬間に鮮魚電車の運転を、貨物輸送が順調に推移しだしたのを見て、魚菜類を主とした貨物列車の設定や、三田駅での貨物の受け渡しや、三木の産品の運送、三木線を粟生まで延長した機には粟生駅でも国鉄との間で貨物の受け渡しを行うことへと貨物業務を広げて行きました。
そして三木線延長工事の資材運搬にも使用することを考慮して三菱電機三菱重工合作の電気機関車ED2001を導入しました。沿線の全線に渡って急勾配区間が多いことやら、当時は電気事情が悪く頻繁に停電が有った事等を考慮して、45t機関車ですが、牽引力を75tと高めに設定し、発電ブレーキや電磁直通ブレーキを装備した上に、急勾配区間で無電源状態になって停車した際に惰力で動き出さないように、レールに吸着する磁石ブレーキまで装備しています。恐らく高価だったはずです。三木線延長工事中や、後の鈴蘭台〜有馬口間や粟生線の複線化工事に際しては大活躍し、沿線の道路網が整備されて貨物運送が自動車に切り替わり、国鉄貨車の乗り入れが廃止された1963年までは一般貨物運送や線路保守等に大いに活躍したものでした。今日でもバラスの散布やレールの運搬等にその能力を発揮しておりますが、何となく勿体無い感じがします。
 
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ED2001 鈴蘭台にて (「神鉄大好き」管理人…淡路島の電車小僧様提供)};};>http://www.k3.dion.ne.jp/~shinyu/index.htm]]

好調な業績を背景に1950年12月、三木電鉄開業以来の念願だった三木〜粟生間の三木線延長工事に着工しました。1951年3月に4000万円の増資を行い資本金を1億2000万円に引き上げ、工事費を捻出しました。工事は順調に進み1951年12月28日には小野までが開通、翌1952年4月10日小野〜粟生間も完成して三木線が全通、粟生線と改名されました。

1952年ごろを境に、世の中が落ち着きを取り戻し始め、一世を風靡したかつぎやのおばさん達は次第に見かけなくなり、神戸市の戦後復興が捗りだしたのを機会に神鉄沿線に疎開していた人達が徐々に市内に帰りだしました。乗客が減りだしたのです。そんな乗客減少の中、三木線を延長して粟生駅で国鉄の加古川北条線と接続しましたが、小野や粟生その奥の社や西脇は神戸市内からは遠過ぎたのか、神戸に通勤する人も少なく当初期待したほどの乗客の増加が見られませんで、延長工事による負担が大きなお荷物になって来たのでした。

建設の優先順位を見誤ったのです。湊川と国鉄神戸駅を結ぶ国鉄連絡線の建設を何が何でも優先させるべきでした。免許当時の神戸市内は占領軍のキャンプと焼け跡の空き地だらけでして、高架鉄道で線路を敷設する工法で、若し全線に渡って高架鉄道が無理ならとりあえず市電と交差する場所だけを高架にし、後に全線高架化する事ですんなりと許可が下りたはずです。神戸駅での直接接続の効果は計り知れないものがあったはずで、少なくとも鈴蘭台地域は大阪の通勤圏に組み入れられたはずでした。
神戸市内に乗り入れている神鉄を除く私鉄三社を繋ぐ鉄道の構想が神戸市の肝いりで浮上し、ぐずぐずしているうちに新開地を経由するルートが1958年には具体化し、神鉄も半ば強制的に組み込まれ、建設の時期を失してしまいました。せっかくの免許も神戸市の指導で1965年に新会社に譲って、湊川から新開地までを神戸市の第三セクター新会社に敷設してもらうことになりました。
これは後の話になりますが、新会社神戸高速鉄道への乗り入れと言っても新開地までの400メーターほどで、権利を持っていた線路の三分の一にも満たない距離です。阪急阪神山陽連絡線とは線路幅が異なり相互乗り入れが出来ません。短い距離を歩くことで連絡できるようになりましたが、もう一つ乗り入れのメリットが出ないようでした。おまけに神戸高速の運賃が適用され、乗り継ぎ運賃制の導入が見送られたため乗り継いだ場合の運賃がとても高くなり、今日でも神戸高速線の乗車効率はJRに比べると格段に低いようです。
余談ですが、今日までに何度か乗り継ぎ運賃制の導入を検討したが神戸高速鉄道の株式の40%を握る神戸市の消極的姿勢で実現しなかったとききます。今回阪急阪神ホールディングの出現で、阪急阪神グループ側が40%の株式を握ることになったのを機会に、既得権の保持に汲々としている神戸市を排除して、利用者にとっては有難い乗り継ぎ運賃制の導入に踏み切ると神戸市内の電車利用者の流れに革命的な変化が起こるものと思います。


 

目次

神戸電鉄の歩み

…神戸有馬電気鉄道時代
三木電鉄の開通と神戸電気鉄道の誕生まで
…阪急グループに加わる以前の神戸電鉄時代
阪急グループ時代その一(300形800形の登場)
阪急グループ時代その二(1000形の登場)
阪急グループ時代その三(新開地乗り入れ開始)
阪急グループ時代その四(四連運転そして粟生線の一部複線開通)


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Last-modified: 2007-10-09 (火) 08:25:48 (4057d)