阪急電車の旧型車達

その1…木造車(1)

 

No.1:7番

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甲陽線甲陽園〜苦楽園口間の連続33パーミル勾配を駆け下る7番 1954年4月
戦後まもなくから1957年頃まで甲陽線の主力でした。
阪急の前身箕面有馬電気軌道が開通に際し用意した18両の電車の中の一台です。小学校に通っていた頃に、それまで甲陽線を走っていた37番だったと思うのですが進駐軍専用になり、代わりに7番8番が入線して来ました。誕生当時の姿は写真でしか見た事がないのですが、私の知っている7番8番はこんな姿で、窓から下の腰板は鋼板が張られ鋲頭が並び、窓周りから上は木製で、いかつくてお世辞にも好いスタイルだとは言えなかった気がします。車内は木造で、明り取り窓と飾りのついた天井に並ぶ鈴蘭燈や、彫刻が施された肘掛など明治の臭いがぷんぷんしていたのを覚えています。運転台は中央だったのですが前後が非常に狭く、GE製のマスコンとブレーキ弁と鎖ブレーキの大きなハンドルが並んでいて、奥行き1メートル足らずの狭い場所で天井が低く椅子も無く、運転手さんは衝立と運転機器に挟まれて立ったままでとても窮屈そうな姿勢で運転していらっしゃいました。台車はブリル27Eを履いていまして、走行中は何かを掴んでいないと立って居れないほどよく揺れて、つり革が網棚を叩く音がとても賑やかでした。
当時の甲陽線にはラッシュアワーが無く始発から最終まで7番か8番の単行電車が15分間隔で往復するダイヤで、中間駅苦楽園口駅構内は複線でしたが上屋のある上りホームだけが使用されて、下りホームは留置線代わりになっていました。
全盛期は結構長かったのですが、私が電車通学を始めた昭和30年4月にこの7番が夙川駅で車止めに乗り上げる事故を起こして車体が真ん中で折れてしまい、それが契機で二両とも廃車されてしまいました。阪急で一番最後まで電動車のままで生き残った1形車でした。
 
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和歌山電鉄和歌山駅の804番 1963年6月16日 古鉄春秋氏写真

ちなみに8番は南海電鉄に吸収される前の和歌山電軌貴志川線に移り、丸屋根に改造の上手持ちの足回りを履いて804番として1969年8月頃まで活躍したそうですが、7番は事故後廃車解体されました。

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No.2:21番

 
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伊丹線で活躍中の21番 1946年7月塚口駅にて 浦原利穂氏撮影
この写真当時は当方小学1年生でした。義弟古鉄春秋氏が鉄道友の会の大先輩浦原利穂氏より頂戴した物を拝借しパソコンで修正し掲載しました。当時はフイルムが手に入りにくいご時勢でよく写されたものだと感心しています。
戦中から戦後間もない頃、甲陽線は37番が伊丹線は19番から22番までの四両が単行運転で走っていたように覚えています。600形が神戸線に登場した時点で神戸線系の車両規格が大型化されましたので、西宮車庫所属の木造車は全てステップつきになっていました。乗降扉は手動でして、夏の暑い日に風を取り込むためにわざと開けたままにして車掌さんに怒られたものでした。
当時進駐軍の占領下にありあらゆる公共施設の表示が英文併記が義務付けられ、電車の看板も写真のスタイルの物が使われていました。1944年の占領解除後に改められたと覚えています。
19番から32番までは1950年に半鋼車改造工事を受け、運転台を撤去し広幅貫通路が設けられ中間付随車化されました。しかし台車はそのままブリル27Eでしたので、走行中のローリングは廃車まで変わりませんでした。
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No.3:32番

 
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付随客車32番 1957年3月西宮車庫にて
19番から32番までは1950年に半鋼車改造工事を受け、運転台を撤去し広幅貫通路が設けられ中間付随車化されました。しかし台車はそのままブリル27Eでしたので、走行中のローリングは廃車までそのままですごいものでした。
中間トレーラーに改造された1形は半鋼製車になり、ドアも自動化されましたが、モニタ屋根や車内の装備などは両運電動車時代と殆ど変わりませんでした。1953年から320形や500形の三連化が行われた際に中間に挟まれて固定編成に組み込まれました。
付随客車1形の活躍の場はもっぱら今津線と宝塚線で、1955年から1958年まで今津線の甲東園にあった高校に通っていた時代この電車の世話になりました。今津線沿線には学校が集中していて通学時間帯の混み様は酷い物で、詰め込まれた状態のままの姿勢が直せないどころかドアが人間の圧力で外側に湾曲するほどで、1形は木製扉だったので扉に押し付けられていると絶えずメリメリと音がして怖かったものです。この状態は三年間の通学期間中毎日続きました。
1956年頃から廃車が出るようになりましたが、今津線では1960年ごろになって姿を消しました。
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No.4:宝塚ファミリーランドの1番

 
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復元された1番 1960年1月宝塚ファミリーランドにて
宝塚ファミリーランドが健在だった頃、復元された1番が「電車館」に展示されていました。腰周りに鋼板を巻いた、我が愛しの7番8番と同じスタイルに復元されていましたが、相違点も色々とありました。雨樋がつき、パンタグラフのほかにポールも装備していました。運転台には方向幕がついて、ポールを除くと19番以降のスタイルに近い物で、後期スタイルと言った感じでした。一番大きな違いは簡易半鋼製化されたのではなく、付随客車時代同様の半鋼製車でした。何と言っても一番の特徴は貫通扉下のアンチクライマーでしょう。阪急はアンチクライマーが好きと見えて多用していた方ですが、この式の取り付けは更新された1形と阪急最初の全鋼車600形だけでした。ちなみに現在は正雀工場内に大事に保管されているそうです。
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No.5:40番

 
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能勢電より帰って来て休車状態の45番 1963年2月3日西宮車庫にて 古鉄春秋氏写真
40形電車は1922年に複線化された西宝線(現在の今津線の西宮北口〜宝塚間)の輸送力増強用に大阪の藤永田造船所(現在の三井造船)で1923年に新造された木造電車でした。車長が10.5m車幅が2.3mで定員65人の小型電動車でした。この電車の大きな特徴は阪急初電気ブレーキ装備車だったことです。連結運転を考慮していなかったので直接制御方式でしたがノッチが電気ブレーキ付きでした。1936年ごろまで今津線で活躍していましたが、今津線にも二両連結運転が導入されるに伴い、連結運転可能な1形と目蒲電鉄から移って来た元院電の90〜95に追い立てられるようにして、当時車両不足が深刻だった能勢電鉄に41〜43・45が貸し出され40・44は箕面線専属になりましたが1946年に引退し池田車庫内で事業用に使われていたようです。
能勢電時代の40形は何度か乗りました。酷い保存状態で、砂利道の脇に敷かれて砂利と雑草に半ば埋まったレールを砂煙を巻き上げながらミッシミッシと揺れながら自転車並みの速度で走っていました。その所為か車体が土塗れで色さえ判別できないほどでした。又架線の状態が悪いのでポールが良く離線し、その度に車掌さんが窓から半身を乗り出し戻すのに苦労していました。今日の能勢電からは想像できない光景でした。
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能勢口ー川西池田区間運用についていた頃の61番 1968年7月能勢口駅にて

能勢電鉄へ行った内の二両が後に鋼体化され60・61になりました。

 

付記…37形

40形にそっくりな電車に37〜39の三両がありました。40形と殆ど変わらないのですが、ベンチレーターをモニタ屋根の両端だけにしたスタイルでした。1921年に伊丹線用として梅鉢鉄工所(現在の東急車輛)で新造した電車で、伊丹線沿線の人口が増えるにつれ手狭になり1形にバトンタッチして37番は甲陽線に38番と39番は箕面線に移りました。37番は1946年まで甲陽線で活躍しましたが、7番とバトンタッチして箕面宝塚線用進駐軍専用車になり全三両が宝塚線に集結しました。占領を解かれた1949年に進駐軍専用車が廃止になると全車両が能勢電に貸与され、1953年に鋼体化されて能勢電の50〜52番になり1982年まで活躍しました。
37形は自動連結器を装備していましたが直接制御のままで連結用のエアーホースの装備も無く、結局連結運転されることは無かったようです。甲陽線時代37番によく乗りましたが天井の低いちっちゃな電車でした。台車にブリル77を履いていましたが乗り心地は7番8番ほど酷くはなかったと覚えています。

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能勢口ー川西池田区間運用についていた頃の51番 1968年7月能勢口駅にて

能勢電鉄へ行った37形は後に鋼体化され50〜52になりました。

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≫阪急電車の旧型車達の目次
≫[1]…木造車(2):懐かしのP5達(1)
≫ …木造車(3):懐かしのP5達(2)
≫ …木造車(4):引退したP5達
≫ …木造車(5):55番・68番・86番・80番
≫[2]…雑形車(1):98番・99番・95番・90番・91番
≫ …雑形車…雑形車(2):92番・93番・97番
≫[3]…大正の鋼製釣掛車(1)…300形
≫ …大正の鋼製釣掛車(2)…600形
≫[4]…新京阪の顔P−6(1):104番・106番・139番・109番・143番
≫ …新京阪の顔P−6(2):142番・120番・1501番・1504番・117番
≫ …新京阪の顔P−6(3):107番・118番・1526番・134番・120番
≫ …新京阪の顔P−6(4):1515番・134番・131番・107番・1522番
≫ …新京阪の顔P−6(5):114番・125番・124番・146番・1500番
≫[5]…近代電車の旗手900形(1):900番・901番・902番・905番
≫ …近代電車の旗手900形(2):913番・912番・911番・906番・919番
≫[6]…ミスター阪急 920形(1):922番・920番・953番・951番
≫ …ミスター阪急 920形(2):922番・925番・928番・958番・959番
≫ …ミスター阪急 920形(3):930番・961番・964番
≫ …ミスター阪急 920形(4):936番・969番・973番・943番・975番

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添付ファイル: fileh=004_1960^01_ck010_宝塚ファミリーランド_mc1.jpg 937件 [詳細] fileh=005-1_1963^0203_ys072-01_西宮北口_mc45.JPG 902件 [詳細] fileh=003_1957^03_ck001_西宮車庫_t32.jpg 966件 [詳細] fileh=005-2_1970^01_ck001_能勢口_Mc61.jpg 826件 [詳細] fileh=001-2_1963^0616_ys102-23_和歌山_mc804.JPG 881件 [詳細] fileh=002_1946^0705_tu154-07_塚口_mc21.jpg 1355件 [詳細] fileh=005-3_1970^01_ck002_川西駅前-能勢口_Mc51.jpg 871件 [詳細] fileh=001-1_1954^04_ck007_甲陽園_mc7.jpg 1467件 [詳細]

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Last-modified: 2011-12-01 (木) 13:14:43 (2697d)