シンテツ電車物語

 
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目次

シンテツ電車物語

…創業期
三木電鉄の開通と終戦まで
…戦後混乱期と神戸電鉄の誕生
…リニュアルして再出発の時代(新型車両の登場)
阪急グループ時代その二(1000形の登場)
阪急グループ時代その三(新開地乗り入れ開始)
阪急グループ時代その四(四連運転そして粟生線の一部複線開通)

 

創業期

神戸電鉄株式会社は、兵庫県神戸市の湊川駅を起点に有馬温泉・JR福知山線三田駅及びJR加古川線粟生駅をむすぶ鉄道路線を運営する阪急阪神ホールディングスグループの鉄道事業会社である。私のような戦前生まれの世代には「神戸電鉄」はピンとこなくて、「有馬温泉行き電車」で「ああ、シンユウ電車」となる人が多いように思う。「シンユウ電車」は神戸になじみの深い高齢者にとってはとても親しみを感じるなつかしい名前だ。華やかに開通して連日乗客が殺到しおすなおすなの大盛況だった開業当初の想い出(この頃を知るのは長寿を敬われる世代だろうと思う)、ブームが去ると潮が引くように乗客が減りガラガラ電車ばかりが目立って(七十代から八十代にかけての世代には共通する印象だ)、電車や線路がいたむにまかせていた時代、戦中戦後はヤミ屋がハバをきかせるすしづめの買い出し電車だった記憶、今の「神戸電鉄」からは想像もできない田舎電車だった。「シンユウ」と聞いて、戦中戦後のあの汚いめちゃくちゃこんでいた田舎電車を思い出すのが、神戸に多少の縁がある、私と同じ世代の高齢者連中だろう。

神戸側ターミナルの湊川駅は新開地の北のはずれの湊川公園の地下で、湊川トンネルの北側にとなりあった半地下構造で、薄暗く殺風景な場末の駅そのままだった。湊川を出て最初の駅の長田は夢野の斎場と墓地の玄関口で冥土の入り口と言った風情で人家のある在所ではなく、湊川から長田までの線路沿いの街道はいまだに「そうれんみち」とよばれているように、夢野へののべの送りの行列がひながとぎれることがなかった。湊川公園の地下から会下山のやますそづたいにきゅうなさかをのぼり、夢野で墓地のしたを通って丸山の山腹から鵯越と稜線を縫って登り六甲山を越え、人里まばらな裏六甲の谷間をたどって有馬温泉へ向かう電車は施設の保全改良どころか、職員の給料の支払いにも事を欠く状態で、経営状態の悪さが風評で広まり、少々新車を導入しても「ボロデンシンユウ」のイメージは強まりこそすれ消えることはなかった。戦後世間が落ち着いてくるにつれて田舎電車として神戸市民に忘れられた存在になっていった。
エネルギー革命で炭坑の閉山が続いた、高度成長期に炭坑離職者が新たな職を求めて阪神東播工業地帯に大量に流れて来る時代になって、新たな住宅地の造成が急務になり、それを機会に神戸の郊外電車として「神戸電鉄」が注目され始めたときに、阪急の傘下に入り、近代化を推し進めて田舎電車からの脱皮をはかり、準大手に認定されるまでになったが、高速化が線形に阻まれてはかどらず、乗車料金の値上げを繰り返した結果「日本一運賃が高い電車」と沿線住民に思われるようになり、沿線人口の減少や三宮直通バスの開通の影響をもろに受けて低迷しているのが今日のすがただ。累積赤字が100億円を超える粟生線をかかえているせいか、2004年までは準大手私鉄に分類されていた国土交通省監修『数字で見る鉄道』の2005年版以降は中小民鉄に分類された神戸電鉄、色々な曲折を経て今日にいたるまでを私の知る範囲内でとりとめもなく書き綴ってみた。

湊川駅の所在地は正式には荒田なのだが、荒田は読んで字の如く土砂と荒石だらけの耕作に不向きな荒れ地だった地域で、鈴蘭台辺りの小部谷から烏原を経由して流れてくる石井川と、有馬街道添いの天王谷から急斜面を下ってくる天王谷川が、荒田の北側で合流して湊川になり南下して川崎造船所辺りで海に流れ込んでいた。石井川と天王谷川は神戸特有の流域面積の狭い急勾配河川の典型で、雨が降る度に規模の大小があるにせよ氾濫を繰り返し土石流を湊川に押し流し、流れ出る土砂が湊川の川底どんどんせり上げて天井川を形成、河口に流出した土砂は海底に堆積して神戸港を浅くしていった。平清盛がこの荒田の北側に福原の都を造営したがすぐに投げ出してしまった史実からも、この辺りの河川氾濫の被害は平安の昔から続いていたようだ。湊川の川底があがるにつれて氾濫が多くなり被害が深刻になるのに辟易した住民の強い要望で、明治34年、合流点の菊水橋付近で川筋を西へ曲げ、会下山を貫通する隧道を掘り、長田神社の南方で刈藻川に合流する新湊川を新たに通して、湊川を埋め立ててしまった。川を埋め立てた跡に湊川公園が、公園の南には湊川新開地と呼ばれる繁華街が開けたのだった。湊川駅は湊川を埋め立てた川跡に建設したのでこの駅名になったそうだ。湊川公園の地下に建設された地下駅だが道路から電車の発着する様子がうかがえる半地下構造だった。

 
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開業当初の湊川駅 (1928年当時の新聞写真)
左側の庇の奥が道路と平行に設置された発着ホームで、木製の改札口で遮られているだけで、電車の発着する様子が道路から見る事が出来た
一番低い庇の下が乗車券売り場で、乗車券を求める人の列が出来ている
屋上は湊川公園で、駅前の賑わいを見物する人垣が出来ている。沿線案内図看板の右側が湊川トンネルだ

「神有(シンユウ)電車」の「神有」は神戸と有馬温泉の頭文字をつなげたもので、神有電車の正式名称は神戸有馬電気鉄道だが、神戸市街と有馬温泉を繋ぐ鉄道の敷設が創業の目的だった。有馬温泉は歴史が古く、大阪や神戸、その周辺に住む人たちには行楽地としてまた湯治場として親しまれていた。阪急電車が箕面有馬電気軌道として開通した当初、大阪と有馬温泉の間に電車を走らせる計画だったことからもうかがえるように、太閤さんのお湯としてとても人気があった。大阪神戸阪神間の海沿いの市街地と有馬温泉を結ぶ鉄道建設の計画は、箕面有馬電気軌道の他にもいろいろあったようだが、箕面有馬電気軌道が宝塚でとぎれてしまい有馬温泉まで軌道を延ばすことが出来なかったように、屏風のようにそそり立つ六甲山の険しい地形に妨げられてどれもが実現しなかった。長い間福知山線の三田が有馬温泉の玄関口になっていた。
神有電車の開通する前は神戸から有馬温泉へ行くには、東海道本線で神崎(現在の尼崎)に出て福知山線に乗り換え、三田から有馬線を利用するのがもっとも一般的なルートだった。それが嫌なら、自動車の通行が無理な有馬街道を歩くか、六甲山越えのトレッキングに頼るほかなかった。トレッキングコースは「ハイキングの後は温泉でゆっくり」が今日でも結構人気があるようでトレッカーの姿が絶えない。1920年に阪急電車が当時未だ西灘村だった上筒井まで開通、その翌年西宮北口宝塚間の西宝線(現今津線)が開通して、それまでの神崎経由のことを思えば可也便利になったが、宝塚からは福知山線の列車に揺られていくつものトンネルですすだらけになった顔のまま三田から有馬線に乗って温泉に向かうルートは、列車の本数もさることながら遠回りの感が拭えず結構不便だった。こんな事情にも関わらず有馬温泉は神戸の奥座敷と思われていたようだ。
「神戸と直結する鉄道があれば温泉がもっと賑わうだろう」は有馬温泉の商店主の願望であり、「農作物を神戸に出せればいいのになあ」が有馬郡在住の農民の切実な思いだった。そして有馬や三田や篠山の地方の有力者にとっては、神戸が兵庫県の政治経済の中心にも関ずアクセスが未整備の状態に、神戸に直結する鉄道の敷設が避けられない政治課題になっていた。そのようななかで、神戸直通鉄道の敷設に身を乗り出したのが山脇延吉氏だった。
比較的開けた有馬郡道場村の有力者で県会議員だった山脇延吉氏は、地元で銀行を営む大地主の出身で、東大で土木工学を修め土木建設に造詣が深かったようで、県会議員の立場から神戸直通鉄道の必要性を痛感していたようだ。兵庫県議会議長時代の1915年(大正4年)4月に三田〜有馬温泉間に有馬鉄道会社を開通させ、一ヶ月23.000円の賃貸料で鉄道院に貸与し、省線の有馬線の開業に貢献していた。 有馬線と六甲山を越えた神戸市街地を連絡する鉄道の建設を決心されたのもこの頃だったようで、「神戸と有馬の間に電車を走らせば神戸から有馬温泉へ行く客の殆どが利用してくれるだろう。また有馬温泉で有馬線と繋げば宝塚回りだった篠山や氷上方面からの神戸への足の便が良くなり、その恩恵は計り知れないと思う。」と神戸や兵庫県の政財界を積極的に説いてまわり、根気よく根回しを続けておられたようだ。当時川崎や三菱の大工場が庇を接し港の発展で人口急増が著しい神戸市は市街地の狭さに頭を悩ましていて、この鉄道の開通の暁には裏六甲を新しい住宅地として開発出来ると見込んで、積極的に支援したようで、氏の日ごろの尽力がやがて功を奏し、協力者が集い、資金集めの目途もたち、発起人会の設立にこぎつけた。有馬街道の入り口に当たる平野の上三条と有馬線の終点有馬温泉駅との間に有馬街道沿いに電気鉄道を敷設する免許を申請したのが1922年11月で、翌1923年6月には免許がおりた。街道沿いに線路を敷設するのが当時の鉄道敷設の常識で、平野は市電の終点で省線の神戸駅に比較的近く、有馬街道が神戸市街と有馬温泉を結ぶ唯一の街道だったのでこのルートが選ばれたのだと思う。神戸政財界の強力な支持を受けて、1926年3月に創立総会を県会議事堂で開催し、万々歳のなか神戸有馬電気鉄道株式会社が発足し、五分の配当で株式の一般公募に乗り出した。

しかしいざ動き出すと好事魔多しで、1923年(大正12年)の関東大震災が東京横浜を初め、静岡県東部千葉県茨城県までの広い範囲に災害史上最大の被害を与え、国家経済を破綻に追い込んでしまった。翌年に大恐慌の波が日本国中を襲い神戸も飲み込まれてしまった。神戸製鋼所や豊年製油の親会社であり神戸を代表する総合商社の鈴木商店が倒産し、川崎造船所や三菱造船所のような大工場が資金繰りに行き詰まったりで神戸経済が麻痺状態に、当然新会社の建設資金集めが苦しいものになってしまった。
建設予定の沿線の大部分が道路建設もままならない山間部な為、集落と近くの省線駅とを繋ぐ目的で田圃の中にレールを敷設する様に簡単には行かないわけで、六甲山と言う険しい山塊を縦断するのだから当時の技術水準に量れば相当無茶な話しだったようだ。不可能な工事計画が続出し、建設ルートを根本から見直さざるを得なくなってしまった。神戸側の玄関口に予定している平野は、六甲山特有の崩れやすい花崗岩地質の所為で天王谷辺りの勾配の克服は無理と判断され、工事可能な迂回ルートとして会下山の東端から夢野、丸山、鵯越、小部を経由して箕谷で有馬街道に接するルートが新たに考えられて湊川新開地近辺に移さざるを得なくなった。更に、一日六往復を運行していた有馬線の列車の増発を省線が断ったため有馬で連絡のメリットが無くなり、社長の出身地道場村民の要請を受けて、途中駅の唐櫃から三田までの支線が追加になり、当初とは計画が大きく変わってしまい、あんなやこんなやで着工が大幅に遅れてしまった。いつの間にか世間では「神有電車は無理やで、道もまともにつけられへんところを電車が走れるわけないやろ」との風評が立ち、資金集めを余計に困難にした。特に、電鉄建設に意欲を持っていた日本毛織の川西清兵衛社長が出資辞退を通告してきたのが堪えた。資金集めの目途が立たなくなった上に新会社の社会的信用をも著しく傷つけてしまったのである。
当時は電力会社が乱立気味で、不況の所為で夫々の電力会社の売り上げが大幅に落ち込んでおり、大手と言えども新規顧客の獲得に血眼になっていた。交通手段としての鉄道は文明の象徴であり、地方の有力者にとって魅力ある事業で、日本全国に雨後の竹の子のように新線建設計画が生まれていた。とくに煙突から火の粉を巻き散らさない電車は人家の至近にレールを敷設できるので重宝され、電鉄建設がブーム化していた。当然電力会社の目の着けるところとなり、将来の安定した大口顧客として電気鉄道の建設に積極的に参画していたようだ。神有電車もそんな金の卵にひとつだが、関西最大手の宇治川電気は傘下に電鉄を複数持っていた所為か噂の芳しくないシンユウ電車には冷たかったようで、にっちもさっちもゆかない窮状に救世主として現れたのが日本電力だった。
日本電力株式会社は大阪商船とその子会社の宇治川電気が共同で1919年12月に設立した電力会社で大阪市北区に本社を置く、宇治川電気や東京電灯等と並んで五大電力会社の一つで、当時「日電(にちでん)」と呼ばれ、第一次大戦後の好景気の波に乗って関西地方や中部地方で大規模工場が増えて電力需要が非常に旺盛だったので、庄川や黒部川流域に水力発電所を建設し、高圧電線を使って関東・中部・関西方面の電力会社に電力を供給することを目的に設立された会社だった。しかし設立直後から景気が後退し始めて電力需要が伸び悩み、電力会社が電気の購入を躊躇し始めたために、大口需要家を独自で開拓しなければならず、既存の電力会社に電力戦の仕掛け、激しい顧客の取り合い合戦を繰り広げていた。そんな日電にとってシンユウは、芳しくない評判をさっ引いても極めて上等な金の卵に見えたのだと思う。日電の子会社日本工業合資会社の小林長兵衛社長が、工事を請け負う条件で、川西清兵衛氏の出資分の肩代わりを申し出てくれた。電力の供給は日電が引受けて、1927年5月なんとか着工にこぎつける事が出来たのだった。そのうえさらに、高利貸しに借りてまで五十万円ほどの資金を工面してくれたりした。山脇社長が家業の道場銀行を売るまでして私財を投じて電鉄建設に情熱を捧げる姿に感銘したからだと言われている。工事が始まると日本工業合資会社は建設工事費を株券で受け取る事を了承し、神戸有馬電気鉄道の資金負担を極力抑えてくれたのだが、持ち株がどんどん増えてついには筆頭株主になり、必然的に経営にも参画して行くようになった。

神戸の市街地から有馬温泉に向けてレールを敷設するとなるとどうしても越えなければならない難関が六甲山だ。神戸と北摂地域との間に立つ屏風のような存在で、花崗岩で出来た急峻な山脈である。六甲山を縦断するトンネルを穿つことは当時の技術水準では多額の資金と長時間の工期が掛かるため、資金と工期に限りがある以上長い隧道とか大きな橋梁とかは極力避けてレールを敷設する方法をとらざるをえなかった。
日本工業は朝鮮半島で一千五百人近い工夫を募集し、甘言を弄して集めてきた労働者を「たこ部屋」に詰め込んで監視し、低賃金と劣悪な労働条件でこき使う、いわゆる人海戦術で工事を推し進めたが、無理な工事を強いたために事故が絶えず、労働の過酷さに逃げ出すものが続出し、やくざを使って逃亡者を連れ戻す事件が多発して世間のひんしゅくを買い、そんなこんなで工事の進捗状況は頗る悪かった。花崗岩の崩れやすい地質が災いして、東山トンネルでの落盤事故、丸山付近での土砂崩れ、菊水山付近でのトロッコの脱線転覆事故等々の現場事故が続発しその度に少なからぬ犠牲者が出た。現場のあまりのひどさに労働者の憤懣が爆発してストライキが発生、やくざの力を借りて押さえに掛かったことから労使関係が完全にこじれてしまい大きな社会問題になってしまった。労使紛争が連日新聞紙上を賑わすようになっていたが、電鉄会社としては大株主でもあり恩義のある日本工業合資会社に強いことも言えず、こんな事件の多発が神有電気鉄道の社会的信用を著しく傷つけてしまったようだった。事件は使用者側の大幅な譲歩で解決はしたものの看板に大きな傷が付いてしまった。建設予定地の収容も捗らず、工事は遅れに遅れて建設費がどんどん膨らみ、湊川〜小部(鈴蘭台)間の工事にかかった費用だけで当初の資本金(500万円)を食いつぶしてしまうしまつだった。有馬温泉まで複線で開通の予定だったのを小部(鈴蘭台)〜有馬温泉間は単線にせざるをえなくなり、建設費節約のために地形に従順にレールを敷設したため、路面電車なりの急カーブや50‰を越える急勾配が随所に点在し、結果的に山岳鉄道になってしまった。

開通の見通しが立ったものの山岳鉄道用の車両の手当てがつかなかった。出力が強く、抑速ブレーキと停止ブレーキを併せ持った電車が必要なのだが、車両会社にしてみれば、欧米メーカーの技術力に頼っている状況で、つぶしの利かない特殊な電車の製造を引き受けても、何らかの事情で引取りを拒否されると転売が難しく元も子も無いわけで、日本電力がバックアップしているとは言え、その日本電力が新進の電力会社で、傘下に小田原電気鉄道と言う倒産会社を抱えており信用度がもう一つで、「事故や事件が多くて開通が危ぶまれている神有電車は触らない方が身のため」と電鉄に対する世間の評価が災いして、川崎造船所を初め名だたるメーカーが相手にしてくれなかった。
そんなところへ日本電力が「日本車両が山岳鉄道用の電車を十両余り抱えて困っており、何とか換金しようと躍起になっている」と言う情報をもたらした。「渡りに船」とばかりに日本電力を通して日本車両に交渉、デ1形電車6両とデニ11形電車4両を購入し、やっと開業の目途が立ったのだった。日本電力の顧客だった小田原電気鉄道が箱根登山線を箱根湯本から小田原に延長する予定で、延長に際して木造車両を半鋼製車に置き換えるべく山岳仕様の電車十両を日本車両に注文していたが、重大事故や火災と言った災禍が多発したため多額の損害を出して倒産、会社の更生を引き受けた日本電力が新たな債務の発生を嫌って延長工事を中止し電車をもキャンセルしたところ、日本車輌が替わりの引取先を強く求めて来たため神有電車を紹介したと思われる。600v1435mm仕様だったのを1500v1067mmに変更したうえでの購入だった。
開業を目前に乗務員の訓練を阪急電車に依頼し、勾配区間での運転技能の訓練は南海鉄道に依頼して高野下〜極楽橋間で念入りに行ったそうである。

 
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デ6 1957年3月 鈴蘭台にて
 
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デニ14 1957年3月 鈴蘭台にて
 

1928年(昭和3年)11月に購入したデ1〜6とデニ11〜14の手持ち写真を紹介したが、写真と購入時の姿の違いは、正面窓上の前照灯が正面窓下にあって取り外しが出来て進行方向に随時移設して使われていた事と、尾灯が右側の半埋め込み式のもの一個だけだった事ぐらいだろう。車長15.24m車幅2.73m車高4.125m乗車定員100人(デニ11〜14は70人)で、但し客室乗降口には製造当初からドアステップが設けられていたので、詳しい数字は資料がないため判らないが、実質の車幅は2.5m程度だろう。当時日本車輌が地方の私鉄向けに製造していた標準スタイルの半鋼製車両だった。現在似たスタイルの電車を求めるなら、富士急行の静態保存車両や、側面の窓扉の配置やベンチレーターの形や雨樋の有無に違いがあるが、一畑電鉄の平田市車庫に保存されているデハニ52・53、大社線の高浜駅近くのさとがた保育園で遊戯室代わりに利用する格好で保存されているデハ3・6が非常に良好な状態だ。写真時代の塗色はチョコレート色だった。窓は下降式で、ドアエンジンが設備されておらず、中央窓の位置が運転台で、客室とは白色の琺瑯引きのパイプの柱で仕切られており、椅子が無く立ったままの運転だった。客室扉と車内は木造で、座席は腰高の奥行きの浅いロングシートで暗緑色のモケット張りだったように覚えている。動力として三菱電機製の93kwモーター4機を備え、連結運転を前提にしていたから間接制御方式を採用していた。マスコンは三菱電機製で制御と抑速制動をの双方を操作するためにか、総括非自動式(HB)だった。抑速発電ブレーキを常用し空気ブレーキは停止用との考えからかSMブレーキ(直通空気ブレーキ)が採用された。SMブレーキは構造が単純で、故障が少なかったので広く普及しており、特に路面電車の殆どが、また二両連結運転で済む民鉄の多くが採用していた。当時は列車分離事故の発生は全く想像もしなかったのだと思う。その後、連結運転が増えるにつれて列車連結分離事故が多発するようになり、その対策に非常弁(非常用の自動空気ブレーキ部位)と指令用の非常管を併設したSME(電車用非常弁付き直通空気ブレーキ)が開発され、2〜3両程度の短編成用には最適なため採用する電鉄が増えたがその必要性を感じなかったのか導入されず、1938年(昭和13年)8月に鵯越付近で列車連結分離事故が発生し多数の犠牲者を出して慌ててSME方式に切り替えられた。釣掛け電車ではおなじみの鎖ブレーキの丸ハンドルが運転台右側の窓下にデンと構えていた。デニ11型はデ1型電車の客室の有馬よりの一部をパイプ柱で仕切って小荷物室にして荷物専用扉を増設したもので、基本的にはデ1型と変わるところはなかった。デ7〜10が翌年1月に増備された。
この電車の特徴は台車だった。日車製のB-16型板台枠台車だが、砂箱がついていて、箱根登山鉄道の101〜104・106〜110がこれに似た台車を嘗て装備していたと覚えている。恐らく電気機関車世の台車を流用したものではないだろうか。砂箱を装備するために採用されたものと想像する。30kgレールと貧弱な路床にも原因があったのか、とにかくすごい台車で、速度が40kmを上回ると激しいローリングを起こした。その揺れ様はすさまじく、つり革が網棚の木枠にぶち当たってガチャンガチャンと音を立てて、時には革帯が切れてわっぱが飛んでしまうことがあった。この電車を立ったままで運転するのは相当きつい仕事だったと思う。砂箱は、50‰程度の勾配では砂を撒く機会が少なかったと見えて昭和8年(1933年)には撤去されてしまった。この台車は非常に悪評だったらしく、次に登場したデ101型では、ボールドウイン台車を模した日車D-16イコライザー台車に変更された。

1928年(昭和3年)11月28日開業を迎えた。開業祝典会場の湊川駅はおせやおせやの大盛況で、悪い噂が流れて資金繰りに苦労していたのがまるで嘘だったかのようだった。開業の日は従業員全員に五銭の大入り袋が配られたそうだ。湊川〜有馬温泉間を14分間隔で電車を走らせたが、44分で有馬温泉まで行けるとあって全便積み残しが出るほどの盛況で、一人でも多くお客さんを押し込む為に尻押し専門の職員が配備されたりしたと言う記録が残っている。終点の有馬温泉へ行く乗客が殆どだった所為で途中駅では乗降に可成り苦労したそうである。12月18日に途中駅の唐櫃(現有馬口)から福知山線三田駅までの三田線が開業した。三田へは、唐櫃(現有馬口)で乗り換えだったが有馬行き電車の二本に一本を三田連絡にして、湊川からほぼ一時間の行程だったようだ。とにかく連日儲かって儲かっての状態で、休日には臨時電車を運転してまで殺到する乗客をさばいたと言う話だ。開業日に湊川駅のホームに立った山脇社長は混雑振りを目の前にして「電車十四両ではとても無理だ」と判断、そ場で日本車両に電車十両を追加発注したと言う。この電車がデ101型で、1929年5月中旬に全車が入線した。

 
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デ109+108 1961年11月丸山にて
 

デ101〜110は車長15.44m車幅2.73m車高4.125mの標準的な電車だった。デ1型を基調にした所謂日車スタイルで、デ1〜10と性能も同じだったが、前述した通り台車がD-16に変更されていて、乗り心地が大幅に改善された。D-16台車は、ブリル27MCBと並んで、クッションの柔らかい揺れの少ない台車で、釣掛け台車の中でも最も好まれた台車の一つではないかと思う。
当時の列車編成は、単行か、デニ11の単行が木造有蓋貨車(詳しい資料を持ち合わせていないが、開通当初から1両保有していたと聞いている)を牽引、デ1の重連、湊川方向にデ1を有馬方向にデニ11を配置した二連、デ101型は性能が同じにも関ず何故かデ1やデニ11と組む事は無く、単行か重連で運用された。

 
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開業当時の姿をとどめていた頃の有馬温泉駅 1974年8月
本屋の屋上に増築されている以外はほぼ原型

有馬温泉への観光客輸送が目玉の鉄道だ。同じように人家まばらな所にレールを敷いた阪急電車とは経営姿勢が根本的に違っていて、沿線に住宅地を積極的に造成しようと姿勢は全く無かった。有馬温泉や道場以外には集落らしいものが無い沿線である。一方、当時の有馬温泉は旅館が三十軒余りの温泉町としては規模が比較的大きいほうで、観光客用の旅館も何軒かはあったがどの旅館も湯治場としての伝統を色濃く残して内湯の設備が無く、町営の外湯に入るのがしきたりだった。外湯は、古来の「一の湯」と「二の湯」そして明治36年にオープンした「高等温泉」だけで、突然物見遊山の客が大勢押しかけて来ても、永年の仕来りを変えれるはずもなく機敏に対応できず、部屋不足で相部屋を強いられたり、入浴に長時間待たされたりで、観光地物価の高さも響いて、「温泉にゆっくりつかって日頃の苦労を忘れよう」と訪れた庶民には「くそおもろない。二度と来るか!」と吐き捨てられる体たらく、評判を落としたのがケチの付き始めで、要の温泉評判の悪さに不況の影響もあって開通ブームは長続きせず、デ100型電車が入線した昭和4年5月頃には開通時のラッシュが嘘のように客足が遠のいてしまっていた。
1957年頃に山の街駅付近に電車の写真を撮りに行った経験があるが、樹木の生い茂る山の斜面に枕木を組んだ木枠に土盛りしたホームがポツリ、駅前はまともな道路が無く古い民家一軒だけの状態だった。周辺に人家まれな駅が多いなか、谷上や唐櫃のような小さな集落がわずかな沿線ではお客さんの数は知れており、現在のような遠距離通勤が想像すら出来ない時代に道場や三田の人達が毎日神戸に出掛けてくれるわけも無く、ましてや篠山や福知山方面と行き来する人の数は極少数である。ターミナル駅の湊川が、繁華街の新開地に程近いとは言え余り評判の良くない場所にあり、他の鉄道線との連絡が市電だけでは、有馬温泉の評判が地に落ちてしまうと客足が遠のくのは当然で、湊川〜有馬温泉間を空車で走る電車さえ生じる始末だった。当初見込んだ需要予測が見事にはずれてしまった。そして客足を呼び戻すための涙ぐましい努力が始まったのだった。

経営が極端に苦しくなった。五分の配当を約束して資金を募ったことも、この場に及んでもろに応えてきた。お客さんがなかなか増えないなか決して手を拱いていたわけでは無い。昭和4年(1929年)8月に日本車輌で我が国初のトロッコ電車テン1を竣工、有馬温泉に開業した直営温泉の入湯をセットした「美人給仕付き納涼ビヤホール電車」を、デ101に牽引させて湊川〜有馬温泉間にノンストップで往復運行したりした。我が国のイベント列車の草分けではないかと思う。

 
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湊川を出て会下山沿いに長田に向かって連続50‰の勾配を登るテン1連結電車
亀井一男氏が1930年頃に撮影された写真
 

温泉付き納涼ビール電車はとても好評で、切符が手に入らずダフ屋まで出たそうだ。冬場には半室に畳と掘り炬燵を持ち込んで座敷に改装して「熱燗で一杯やりながら行く有馬温泉」と、もう半分にはソファーを置いて充分な暖房を備え、女給さんのお酌でカフェームードが楽しみながら日帰り温泉旅行をと、行楽電車として運転したそうだがこれも好評で、太平洋戦争が始まる昭和18年まで続いたそうだ。写真を見て気になるのはブリルB27-E1台車を装備していたことで、ブリル27MCB台車やボールドウインBW78-25-A台車が出回っていた時代の昭和4年の竣工でこの台車は無いだろうというのが正直な感想だ。デ1のB-16台車に引けを取らないほど横揺れが激しいので、ビールや酒が零れてばかりいたと思う。お酒のの売り上げ促進には最良の方法だったかもしれないが。

 
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デト1001 HOIKUSHA日本の私鉄23神戸電鉄より借用
 

福知山線の三田駅に乗り入れたことで手小荷物や新聞、農産物の輸送と言った新しい事業が開けて、デニ11がとても重宝したので、1929年9月に無蓋電動貨物車デト1001を導入、国鉄三田駅からの貨物や沿線住民の貨物の輸送に貨物列車の運転を始めた。
デト1001は日本車輌で竣工した木造無蓋貨物電車で、車体が木造である以外はデ1と同じ仕様に基づいて製造された。デ1の客室が木造無蓋貨物室に、車体外部を覆っていた鋼板が全て木製になり、トラス棒を床下に装備した車両だった。
貨物輸送が成果を収めるにつれ沿線の農家に野菜や苺の栽培を奨励し、特産物として神戸に運ぶ野菜列車の運行も事業化した。夫々相当な成功は収めたようだが、株主に五分の配当を続ける故に増え続ける借金には追いつけなかったようだ。

鉄道建設がどうにか軌道に乗った段階で、山脇社長は有馬温泉と三田連絡だけでは電鉄の経営は成り立たなくなる、沿線には住宅が必要だと判断していたようだ。新ルートに住宅に適した土地を探すと、夢野(長田)は斎場と墓地が目立って誰もが忌み嫌う土地柄、鷹取道(丸山)は山の斜面の中腹で駅前に住宅地を造成するスペースが無く、鵯越も谷間が狭くハイキングコースの入り口にはなっても住宅地にはなり得ない、山田村の小部地域(現在の鈴蘭台)は千六百戸の民家が散在する電気のない未開地域だが、駅予定地を含め平地が多く住宅開発には適しているのはここだけだと思えた。海抜が二百七十メートル近くあって夏場の気温が神戸市内よりは四度ほど低いうえに、新開地から二里(8km)ほどで、湊川から電車に乗れば三十分掛からない便利さだ。山脇社長は小部地域が避暑地として充分に利用できると判断した。ロッジ風の別荘地を造成して分譲する計画を作成、民家に電気を供給することを条件に土地の買収に乗り出した。山脇社長は地域の農家を一軒一軒を訪ねて、「電気が来るようにするにはもっと住宅を増やさなければならなく、神戸市内に住む金持ちを相手にした別荘を建てて『神戸の軽井沢』として売り出せば電車が開通すると必ず売れる。別荘が売れれば地元に電灯会社を作って、線路の電線を使って神戸市内から電気を通して住民各戸に配れる」と造成用の土地の提供を説いて回った。電気のある生活が実現することが住民の長年の夢だったので大いなる協力を得て、小部駅の建設予定地を中心として約40万坪の土地を短期間で確保して別荘地の造成にかかり、1926年には電気配給の施設を完成させた。
電鉄開業の二ヶ月前の1928年9月に全体の四分の一に当たる地域を第一回として売り出し、「関西の軽井沢」「神戸の中心から僅か10分の理想的住宅地。空気清浄、水質良好、気候温和、とくに夏季冷涼。居住者は20銭の電車賃をたったの9銭に割引。土地のご選択には先ず当経営地を」と新聞に広告を掲載して派手に売り出しキャンペーンに打って出たのだった。電気配給や道路建設等に投資する必要があったため神戸の市街地と比べて割安ではなかったが、電鉄が開通してロッジ風の瀟洒な小部駅が開業するときは商店も進出し始めていて、軽井沢ムードにのって分譲地の7割が売れたのだった。1932年8月に小部駅を一般公募で鈴蘭台駅と改名している。

 
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開業当時の小部駅 神戸電鉄史より
 

しかしいざ住んでみると、水道が無く、未舗装の道路は粘土質で雨が降るとぬかるみ、冬場は恐ろしく寒いと、都会生活に慣れた人達にはいささか住み辛く、せっかく建てた家を手放して市内に戻る人が多かったとか。そんなことが知れるにつれ、また不況のせいもあり余り売れなくなったようだった。電鉄と土地分譲事業の不振のダブルパンチを受けて電気代の支払いにも窮するようになり、少しでも安い電気が欲しいと、恩義ある日本電力をそでにして宇治川電気に乗り換えもした。
鈴蘭台の住宅地経営が頭打ちの状態で電灯事業はふるわず、鉄道本体と鈴蘭台の電灯事業の双方で電気料金をも滞納するようになってしまった。日本電力なら創業当初からのつながりを考慮して解決策を模索してくれただろうが、赤の他人の宇治川電気は、神有電車の悪い評判をさんざん聞いてきたので冷たいもので、滞った電気料金の決済に未分譲の用地を要求してきた。結局売れ残った分譲地の全てを電気代の代わりに宇治川電気直系の不動産会社に引き渡す事になり、別荘地分譲事業も頓挫してしまった。電鉄に心血を注いだきた山脇延吉社長は責任を取って社長を辞任して快調に退き、日本工業合資会社の小林長兵衛氏が引き継ぎ、名実ともに日本電力傘下の会社になってしまった。その後も引き続きジリ貧状態で、何とか維持していた五分の配当は続けられなくなり、ついには無配に陥って株価が暴落し、電鉄の信用が急落した。
不況が続くなか、日本興業銀行神戸支店の副店長を専務取締役に迎えたが、湊川駅の立地条件の悪さや建設時の無理がたたって、その後の業績は一向に回復せず、最少の人数で最大限に節約して何とかきりまわして行く自転車操業の繰り返しだった。お先真っ暗な厳しい時代は三木電鉄の開通まで続いたのだった。


 

目次

シンテツ電車物語

…創業期
三木電鉄の開通と終戦まで
…戦後混乱期と神戸電鉄の誕生
阪急グループ時代その一(300形800形の登場)
阪急グループ時代その二(1000形の登場)
阪急グループ時代その三(新開地乗り入れ開始)
阪急グループ時代その四(四連運転そして粟生線の一部複線開通)


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Last-modified: 2010-07-06 (火) 01:26:17 (3056d)